第3話 暗黒騎士と獅子奮迅

「あ、あ、あ」


 ゴミ山が震えた。暗黒騎士ナイトヴァルザーブレードは手を引く。深傷ふかでを負わせすぎては過剰防衛となる。治療可能な程度に抑えねばならないのがこちらの弱みだ。そしてもうひとつ。


 ゴミ山が、予想外の素早さで動いた。ふすまを蹴倒して道を開き、隣の六畳ほどの和室に飛び込み——その瞬間、リーゼロッテの細い手首が掴まれた。


「……え」


 抵抗したが、ゴミの中に抱きかかえるように押さえつけられる。カップラーメンの濁った汁が、服を汚した。


「リーゼロッテ!」


 放して、と言おうとした。人の臭いがするシャツが、顔に押し付けられる。人質に取るつもりだ。最悪だ。足手まといになるなんて。


 庭に続く窓のガラスが、破砕音とともに割れた。空いた片方の手が叩き割ったのだ。そして、割れた大きな破片は月のようにきらきらと光を反射させ、浮き上がる。それはゴミの山が差し伸べた、手にあたる場所に集まり。


 暗黒騎士は一瞬、武器を探そうと周囲を見渡した。その隙だ。ゴミ山が腕を振る。投げ放たれた透明のガラス片は、きらめきながら暗黒騎士に襲いかかった。今度は、避ける隙はない。


 腕で頭をかばう。ガラスはざくりと皮膚を裂き、肉に突き刺さり、灰色のパーカーを血に黒く染めた。痛みに悶える声がする。そして。


「あ、は、はははははは!」


 たかぶったヒステリックな笑い声。笑い声? 人を傷つけておいて?


「なんだよ、簡単じゃん、これで、ああ、ああ、スッキリした!」


 目の前が暗くなるような気分がした。何か熱いマグマのようなものが、胸から逆流するような思いもした。なんで、こんな、だって。これが狂者ルナティック


 私の大事な人を傷つけておいて、こいつは楽しげに笑っている。


 無我夢中で、手をゴミの中に突っ込んだ。がさがさと嫌な手触りの下に、確かに人の身体が——細く痩せた少年のような身体が、ある。


(これは、あくまで君が能力を十分に理解するために教える技術だ。できれば、二度と役に立たない方がいいね。身の安全的にも——君の精神的にも)


 担当の優しい声が蘇る。ごめんなさい。ごめんなさい。私、もう一度あれを使います。


 ごめんなさい、チロル。


(君の治癒の力は、基本的には対象の生命力を消費して回復速度を早めるものだ。だから、その消費をあえて過剰に行えば、相手を弱らせることだってできるんだ……相手が既に負傷している時ならね)


 手のひらに、熱が宿る。ゴミ山はハッとした様子で彼女を振り払おうとするが、離れてなどやらない。両腕を伸ばし、自分から抱きつくようにしてしがみつく。熱は急激に、相手の服を、彼女自身の手をも焦がさんばかりに高まる。


「……がっ」


 痙攣。生命力を無理やり消費させる。傷はやがて治るだろうが、その前に弱れ、と思う。制御を失ったように、がしゃん、といくつかのゴミが床に散らばり、転がった。


 暗黒騎士はその一瞬を逃さない。ゴミ山に飛びかかるように体当たりする。ゴミ山は倒れながらリーゼロッテを盾にしようとするが、身をよじって抜け出す。つんのめりそうになりながら、居間へと駆け戻る。


 乃木はふらふらと立ち上がり、玄関先へとよろめき歩く。それでいい、逃げて、と思う——矢先に、老人はガタンと音を立て、何かにつまずいた。


 猫のキャリーケースだ。


 勢いで蓋が開く。丸い猫が、砲丸か何かのようにこちらへとまっしぐらに走ってくる。だめ、戻って、と抱きとめようとしたが、すり抜けられた。


 和室の中は大混乱で、ゴミ山からゴミがざらざらと剥がれ、畳の上に転がっていた。中身の姿はもう半ば明らかになっている。血に濡れた、よれたスウェット姿の、高校生ほどの少年だ。


 上に乗った暗黒騎士が、手近に転がった定規を剣と化し、周囲のゴミを切り刻み剥がしていく。少年がゴミを引き寄せ、殴打を何度も加える。だが、先ほどまでの威力はない。飛んできた本が、がつんと暗黒騎士の頭を打つ。彼は痛みに反り返り、少年は形成逆転とばかりに身を起こそうとし——。


 猫が、勢い良く飛びかかった。暗黒騎士にではない。殺気に引かれたか、隈のできた顔が痛々しい少年に向けて、だ。鋭い爪の一撃が、頰を打つ。


 赤い線が三本、頰に走った。少年は、予想外の攻撃に目を丸くした。


 顔が歪む。目が潤む。歯を食い縛る。少年は再び這いつくばる。床のゴミがいくつも、着地した猫を射線上に捉えるように引き寄せられる。リーゼロッテは、たまらず飛び出す。猫を今こそ、今度こそ守らないと。


「『夜魔呑狼・ゼラクリウス=ヴェノーグ』」


 少年の伸ばした手のひらに、何の変哲もない定規が……暗黒瘴気剣ドラグザルディムカイザーが突き刺さり、畳の上に縫い止めた。


 猫をかばって抱き締めたリーゼロッテの背に脚に、重い打撃がいくつも加えられた。でも、大丈夫。耐えられる。これくらい。


 チロルは、きっともっとずっと、苦しかったはずなのだから。


「っ、あ、あ、が、痛、痛い」


 少年が上げた虚ろな声は、やがて温度と湿度を帯び、嗚咽おえつへと変わっていった。猫はリーゼロッテの腕の中、背中の毛を逆立て、丸い身体をさらに大きく膨らませている。暗黒騎士が、少年のもう片方の腕を押さえつけた。


 リーゼロッテはにじんだ涙を拭いて立ち上がり、ウエストバッグに入れていた拘束具を取り出す。少年はもはや逆らわなかった。ふたりがかりで動きを封じ、警察に連絡をした。


「……少年。貴君は何やら賞賛を得たかったようであるが」


 ただ、喉を鳴らす音が返ってくる。


「我を追い詰めしその力、紛れもなき強者であったと、それだけは伝えておくぞ。ただし貴君が刃、向けるべきはもろき弱者にあらず。心に刻むべし」


 少年の目から、大粒の涙がぼろぼろと流れる。腕に刺さったガラスを抜き、暗黒騎士は彼に背を向けた。


 歪んで清められたその視界に、騎士の姿はどう映っていたろうか。


「あ、あの、大丈夫ですか」


 乃木が恐る恐るといった様子で声をかけてくる。こくりとうなずくと、心底ほっとした顔になった。


「良かった、良かった……。あなた方がいないと、本当に、ここは……私は独りで……来てくれて、ありがとう、ありがとう……」


 ああ、この人はやはり、ずっと寂しかったのだ、と思う。


「手加減ひとつできぬ強敵であったが……我ら勝利のときである。そなたの功績を讃えようぞ、魔獣キルスターンよ」


 暗黒騎士はまだ興奮している猫にそっと手を近づける。猫はその匂いをすんすんと嗅ぎ……くるりと背を向けた。


「あっ、あれ?」


 猫はもちもちと太いしっぽを振り、乃木の足元にごろんと転がる。


「……嫌われた」


「ゴミの臭いがついていたからかもしれませんね」


 リーゼロッテは自分の袖口も嗅いで、嫌な顔をする。帰ったら速攻でシャワーを浴び、コインランドリーに行かないといけない。そして、何よりその前に。


「暗黒騎士ナイトヴァルザーブレード様。早く傷を治さないと」


 汚れた手が傷に触れないように、ぼんやりと温める。これで良し。そのうちに傷は癒えるだろう。暗黒騎士は、しげしげとリーゼロッテの顔を見た。


「……先ほど、この者が一度苦しげに動きを止めた。そなたのわざか」


「はい。その……でしたけど」


 使い方は習っても、実際に行使したのはチロルの件以来だ。その言葉で、暗黒騎士は彼女の所業を察した様子だった。なんだか頭がガンガンと痛む。精神的な疲労と同時に、体力も消耗したみたいだ。


「済まなきことをした。仄暗ほのぐらき記憶の扉を……いや、その」


 泣きそうな顔で、暗黒騎士は言葉を改めた。


「……ごめん」


「いいえ」


 強いて微笑む。どんな力だって、誰かを助けるためなら、きっと振るえる気がした。その誰かがいつも身体を張って戦う、強くて不器用で、大事な先輩ならなおのことだ。


 にゃあ、と甘い声がする。猫は戸惑い顔の乃木の周りをうろうろし、そのまま馴れた様子でごろりと床に転がった。


「懐かれたな、老翁」


「……猫ね。昔……妻が生きてた頃に飼ってましたが、立て続けに亡くしてしまってね」


 よいしょ、としゃがみ、背中を撫でる。猫は気持ち良さげに目を細めた。


「しかし、この猫はちと太りすぎじゃないですかね。全く、飼い主は何をしてるんですか、猫にだって糖尿病はあるんですよ……」


 ふたりは顔を見合わせる。乃木の愚痴癖が戻ってきた。そのわりには何度も何度も、目を細めてかわいがっている。こちらも心配はなさそうだ、とほっとした。

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