正しい原チャリの盗み方・後編 9/15

 ゆうは思い出す。防空訓練の翌日。字が間違っていたことまでおぼえている。


 浅羽の兄貴は変熊兄貴。


 朝、教室の後ろの黒板いっぱいにそう書かれていた。怒り狂ったギーがに食ってかかった。犯人は織田に決まっていたからだ。すいぜんが教室にあいさつにやって来たあのときも、バカでスケベでお調子者の織田はだれよりもしつこく夕子をからかっていたからである。ギーに問い詰められるまでもなく、織田は黒板の文句を書いたのが自分であることを認め、ギーの振り上げたこぶしを大げさに怖がって女の腐ったような悲鳴を上げた。夢中で黒板の文字を消して席に戻った夕子は、自分の机にチョークで描かれた下手くそな落書きに気づいた。下手くそすぎて、吹き出しの中の「いやーんお兄ちゃんのえっちー」という文字を読むまでは、一体何が描かれているのかわからなかった。そして、気がついたときには夕子は織田の目の前にいて、ニキビだらけの顔面にぐーを入れていた。ダウンするまでにもう三発入れた。ギーに止められ、先生が来て、床にたれた鼻血を掃除させられた。帰りに寄ったコーヒースタンドで、ギーがなぐさめにもならないことを言った。


 ──あいつさあ、夕子に気があるんだよ。




 宇宙人だろうが女の子だろうが容赦はしない。水前寺はそういう差別はしない。


 ことによると、区別もしていないかもしれない。


「どすこお───────────────────────────────い!!」


 夕子は、ぼっかぼかにやられた。


 でかいくつ底で顔ぜんぶを埋め尽くされるようなりをもらった。川下の浅瀬に倒れ込んで底まで頭が沈み、すぐさま両足をつかまれてジャイアントスイングで振り回され、今度は川上の深みに放り込まれた。


 どうにか立ち上がった。


 立ち上がるのがやっとだった。


 ところが、水前寺も川の中に倒れていた。ジャイアントスイングで自分も目を回したらしい。水死体のように泥水に浮いていたその身体からだが突然ざばんと起き上がり、


「おのれ味なをしおって、もうその手は食わんぞ! 直ちに覚悟せよ、ドブ川にせんたくばーさんはおらんからな! 脳内お花畑をスキップしながら岬沖までどんぶらこだ!!」


 こぶしに息を吐きかけてすいぜんが立ち上がる。が、どうやらまっすぐに歩けないらしい。三歩ごとにかっくんかっくんと軌道修正をしながらゆっくりと近づいてくる。


 もう足が前に出ない。腕も上がらない。


 川の水とは違うもので視界がにじんでいく。


 悔しいという気持ちだけが空回りする。古傷の中に埋もれていたおくがこぼれ落ちていく。ギーの怒鳴り声との笑い声が、「あさの兄貴は変熊兄貴」と「いやーんお兄ちゃんのえっち」が、兄を追い出した部屋でひとり兄をのろった夜が、ウイルス兵器の予防注射と意地悪な高さの飛び箱が、いいことなどひとつもない名字と出席番号が、


 わざわざ教室まであいさつにやって来た水前寺の晴れがましい笑顔が、


 もう百年も昔のことに思える、どちらもまだ小学生だったころの、庭先にを出して髪を切ってくれた兄の手の感触が。


 泣き声で叫んだ。




「ほ兄ちゃんは変態じゃないもん!!」




 拳の射程にゆうとらえる一歩前で、水前寺は立ち止まった。


「あ?」


「ぜんぶあんたのせいよ!! あんたのせいでほ兄ちゃんがおかしくなっちゃったのよ!!」


 水前寺はいつしゆんだけ考えて、


「──だれがそんなことを言っとるんだ。女とふたりっきりでシェルターの中にいて手も足も出んようなやつの一体どこが変態か」


「手も足も出なかったなんて、どうしてそんなことわかるのよ!?」


「ではなぜお前はそう思う? みんながそううわさしているからか? 妹のくせして自分の兄貴がどういう奴かもわからんのか」


 水前寺はその場にざぶんと座り込んであぐらをかき、


「ったく。どこに引っかかっているのかと思えば」


 手首で口元をこすり、ほおの裏側を舌で探って血の混じったつばを吐き飛ばし、


「──いいか、よく考えろ。そもそもあの腰抜けにだな、女を押し倒して上着をひんいてマウントポジションを取るなどという大それたができると思うか?」


「ほ兄ちゃんは腰抜けじゃないもん!!」


「あのなあ、お前、一体どういう兄貴だったら満足なんだ? スキあらば女を押し倒せる兄貴か? それとも、逆立ちしてもそんなことはできない兄貴か?」


 夕子は答えなかった。ずずっと鼻水をすすった。


「まあおれが見るところでは浅羽特派員は完全に後者だな。女にすけべえなことをするなど夢のまた夢、世界中の時間を止めて透明人間になる薬を飲んでも無理だ。というわけで、シェルター事件に関してこうかんささやかれているうわさはまったくの事実無根。あのあさ特派員にそんなことができるはずがない」


「でも、でも見たっていう人がいっぱいいるもん! ほ兄ちゃんが転校生を押し倒して乗っかってたって、実際に見た人が言いふらしてるんだもん!」


「そう見えたというだけだ。きっと、あの腰抜けがそこまでやらねばならん事情でもあったんだろう」


「何よ事情って!?」


 すいぜんゆうを小鹿にするように鼻を鳴らした。


「おれに聞いてどうする。なにせこちとら枯れススキがゆうれいに見える男だぞ」


「ススキでも幽霊でも何でもいいからっ!!」


 水前寺はため息をき、ざぶりと片ひざを立ててほおづえをついた。


「──浅羽特派員が、防空訓練のドサクサに転校生の女の子をシェルターに引っぱり込んで、けしからん行為に及ぼうとしたが未遂に終わった。お前が聞いている噂はそんなところか?」


 涙をぬぐいながら夕子がうなずく。


だれから聞いた? クラスの友達か?」


 夕子が再びうなずく。


「どうせまた聞きだろう。その友達も別の誰かからそんな話を聞いたというだけで、事件の一端を直接もくげきしたというわけではあるまい。違うか?」


 夕子は三たびうなずく。まだ廊下でカメになっているときに訓練中止の放送が流れて、自分たちのクラスは担任の指示で教室に戻された。だから、シェルターのハッチが開いたときにその場にいた者は、自分たちのクラスにはひとりもいない。


特派員にまつわる不審な点が気になり始めてからだが、おれはシェルター事件に関しても独自にヒミツの調査を行っている。実際に事件を直接もくげきしたやつからも情報を集めた。断っておくが、浅羽特派員から直接話を聞くようなことはしていない。事ここに至っては、奴もすでに伊里野特派員のなぞを構成する一要素だからだ。おれがぎ回っていることを伊里野特派員にもらすかもしれんし、それでなくてもあいつはヒミツには向かん。すぐ顔に出るからな」


 尾行対象をバイクで追いかけ回していた奴の言うセリフか、と夕子は思ったがだまっていた。やはり本人の言う通り、水前寺は「面白ければそれでいい」のだろう。真相の探求が面白いうちは全力でそれをやるが、ほかにもっと面白そうなことを見つけると、すべてのきようがすぐさまそっちに移ってしまうに違いない。


「では、ヒミツ調査の結果わかったことその一。決定的な相違点。ちまたの噂では浅羽特派員が転校生をシェルターに連れ込んだということになっているが、真相はその逆だ」


 泣きべそが一発で引っ込んだ。

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