正しい原チャリの盗み方・後編 8/15

 突然、糸を切ったように全身のきんちようが解けて、伊里野の身体からだが左に倒れかかった。


 浅羽があわてて抱き止める。


 夢中で伊里野の名前を呼ぶ。


「──だいじょうぶ、へいき、」


 その言葉の通り、伊里野はどうにか自分の足で立ち、ポケットティッシュを取り出してのろのろと鼻血をぬぐった。


「ほ、ほんとに平気? とにかく座った方がいいよ、ほら」


 とにかく日陰で休ませよう、そう思って、浅羽は伊里野の手を引いて公園の中へ入ろうとするが、歩道のしきいしと公園の遊歩道との境目で、伊里野はまるでそこに結界でも張られているかのように一度立ち止まった。が、浅羽に何度も促されて結局は公園に足をみ入れ、水飲み場にあるコンクリート製のベンチに腰を下ろした。


「あの、」


「もうだいじょうぶ。ほんとに」


 そうは思えない。さっきの様子は尋常ではなかった。


「でもさ、今も顔色よくないし、」


 は無言。


「ねえ、もし具合が悪いんだったらだれかに電話して迎えに来てもらうから、」


 そこであさの言葉はついえた。


 結局、自分が本気で心配して何を尋ねても、伊里野は何も答えてくれないのだ。


 今日一日、伊里野には本当に色々なことを尋ねた。しかし、伊里野はどこまでもいつもの伊里野で、肝心なことには何も答えてはくれなかった。いつものことだったはずなのに、それが今日の浅羽にはひどくこたえた。なにしろ今日はデートなのだから、普段と違う一面を見せてくれるのではないか、という期待が心のどこかにあったのだろう。


 そのデートも、もうすぐ終わる。


 ため息が出た。


 疲れていた。


「──ごめん。答えてくれないんだよね、どうせ」


 伊里野が息をむ音が聞こえた。


 言い過ぎた、そう思った。


 取り返しのつかないドジをんだ。「ごめん」はともかく「どうせ」はまずい。疲れのせいで頭が回っていなかった。考えなしのひと言がスキだらけの頭からこぼれ落ちてしまった。


「あ、違うんだその、立ち入ったこと聞いちゃったなと思って、」


 浅羽がしどろもどろになってけんめいの言い訳を始めたそのとき、どこかでセミが鳴き始めた。




「約束する? 誰にも言わないって」




 それは、浅羽の懸命の言い訳を容易に断ち切るほどの、伊里野の口から出たとは思えないほどの強い口調だった。伊里野は相変わらずうつむいている。が、見開かれたその目に普段とは違う力がこもっている。スカートを握りめた両手をじっと見つめている。


「ぜったい、ぜったい、ぜったい誰にも言わないって約束できる?」


 セミの鳴き声がじわじわと大きさを増していく。夕暮れにはまったく似つかわしくない、人の身体からだから汗を絞り取るような鳴き方をするセミだった。


「一回しか言わない。質問するのもだめ。具体的な地名や日付は言えない。それでもいい?」


 攻守はまたたく間に逆転していた。


 浅羽は完全に呑まれていた。ビビっていた。伊里野は今までずっと、本当はしたい言い訳もせずにひたすら唇をみ締めていたのかもしれない。首を横に振るのなら今しかない。「ごめん」ではすまない、「どうせ」はもう通用しない。ここから先にみ込むのならば、伊里野と同じ覚悟を決めなくてはならない。


 あさは、首をたてに振った。


「──わかった、約束する。けど」


「訓練中に仲間が死んだの」

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