正しい原チャリの盗み方・前編 12/12

 ずいぶんな間をおいてから、はこくんとうなずいた。まだ顔が赤い。


 あまりにも間がありすぎて、自分が伊里野にした最後の質問が一体なんだったのか、浅羽はすぐに思い出すことができなかった。


「あ、えっと、」


 バイトだ、


「そっか、バイトしてるんだ。どんなバイト?」


 それを聞いてどうするつもりなのかと言えば、もちろん浅羽も同じところでバイトをするつもりなのである。夜遅くなるのもなんのその、給料なんかいらないとまで思う。


「基地の仕事」


 はそう答える。その表情がひどく固い。しかしあさはそれを見ていない。そもそも浅羽は女の子の顔を至近距離で直視しながら話ができるようなタマではない。ひょっとしてぼくらうるさくないかな、あんまり話してるとほかの人に迷惑かな、けど別にいいよな、近くの席に座ってる人なんてだれもいないしな、などというピントのずれたことを考えている。


 ──基地の仕事。


 ずれていたピントがまた別なところで焦点を結び、すいぜんの顔になった。


「それ、ひょっとしてぼくにもできないかな」


 そう尋ねたのはしかし、決して水前寺のためではなかった。


「そんなのだめ」


 伊里野は即答した。


「ぜったいだめ」


 だめ押しまでされた。


 気まずい空気が流れた。なぜ伊里野がそうまで強硬な言い方をしなければならないのか、もちろん浅羽にはわからない。わからないから気持ちがしゆくする。知らず知らずのうちに、伊里野の気に触るようなことを言ったかやったかしたのではないかと思ってしまう。言葉の接ぎ穂を見失い、話を続けるだけの勇気がくじけて浅羽はだまり込む。が、そのちんもくが今度は伊里野を追いつめていく。横目で浅羽の様子をうかがう、唇をむ、ひざの上で両手が複雑にからみ合う。


 伊里野が何か言おうとした。


 そのとき、スクリーンの中が夜のシーンに切り替わり、場内がなお一層の暗さを増した。


 そして、そのタイミングをねらったかのように、浅羽と伊里野の背後で女の悲鳴が上がった。



 その悲鳴は、ホラー映画のような絶叫ではなく、まったく予想外の事態に直面したときのおどろきの声だった。そう切迫した感じでもなく、それほどの大声というわけでもなかった。事実、そのとき場内にいたわずかばかりの客のうち、すぐに背後を振り返ったのは全体の半数ほどだったし、その中に浅羽と伊里野は含まれていなかった。その半数にしたところで、大そうな事件を期待して振り返ったわけではない。どうせブスが痴漢に胸でも触られたか、おっちょこちょいがひざの上にコーラでもこぼしたか。


 が。振り返った半数は、そこにかなり意外なものを見た。


 まずは映画館のやみ。次いで、映写室の窓からスクリーンに放たれる光。


 暗闇の中に、男がいた。


 女もいた。


 どちらもすでに席を立っており、男が女の手をつかみ、まるで引きずるようにして、左手後方のドアから場外へ逃れようとしていた。


 そして、第二の男がいた。


 彼は六尺豊かの大男だった。片手には黒板消しくらいの大きさの何かを持っており、逃げようとする男と女めがけ、客のいない席を次々と踏み越えて、ものすごい勢いで突進していくところだった。


 実は、その場には第二の女もいた。正確を期すならば「女」というよりも「女の子」で、重そうなバッグを胸に抱きしめ、右手後方のドアから外へと転がるように飛び出していった。しかし、だれもそのことに気づかなかった。第二の男のあまりに突飛な行動に、まるで戦場を駆ける兵士のような見た目のインパクトに誰もが目を奪われていたからである。


 突進する第二の男のそうぞうしい足音に、ようやく場内の目すべてが背後を振り返った。


 が、第二の男は非常な俊足だった。あさがその姿を目にしたときにはもう、第二の男はものを目前にしていた。彼は最後の座席の列を飛び越えざまに、ドアから逃げようとする男女にねらいをつけるかのように黒板消しを顔に当てた。


 カメラだった。


 フラッシュが連続で闇をはらった。


 微妙なタイミングだった。目標の男女はもうドアの外にいたし、第二の男はかなり無理な体勢から立て続けにシャッターを切っていた。果たして、男女の姿を見事カメラに収めることができたのか。そのあたりについては、当の第二の男にもわからなかったに違いない。


 すべては、映写機の逆光の中での出来事だ。


 そしてフラッシュのせんこうは、場内にいる全員の闇に慣れきった目をひとつ残らずつぶした。


 浅羽が思わず目を閉じ、もう一度目を開けたときにはもう、事件の役者はすでに全員が退場した後だった。相も変わらぬ映画館の闇があり、映写室の窓から放たれる光の中でほこりの粒子がかがやき、ただ一点、左手後方のドアがかすかに揺れているばかり。



「──な、なんだろ、今の」


 伊里野を見る。


 伊里野も「わからない」とでも言いたげに、少しだけ首をかしげる。


 場内のざわめきが不意に大きくなる。「焦げくさい臭いがする」と誰かが言い出す。


 映写機が止まる。場内にようやく明かりがともる。

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