正しい原チャリの盗み方・前編 10/12

 きゃ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~。


 しいえのもとにやっと聞こえるくらいの声で大喜びしている。けしからんことに小さく指まで指していた。


「いや~~~~~~~~~~~んべったしくっついちゃっても~~~~~~~~~~~~~~」


だまれ。足バタバタさせんな。知らん顔してろ」


「だってあれ見てよあれ~~~~~~~あんなちゃん見るの初めて~~~~~~~~~」


「──なあ、実は寝てんじゃないのかあれ」


 椎名真由美の口調がいきなり冷静さを取り戻し、


「やっぱりあんたもそう思う?」


 榎本は小さくうなずき、きっぱりと、


にあんなざかしいができるとは思えん。あいつにそんな知恵はない」


「──まあいいわそれでも。仲むつまじくて実に結構ね」


「それよりあさだ。なに映画見てんだあいつ」


「映画館で映画見て何が悪いのよ」


「ばか、そもそも映画なんて二の次だろうが。じゃなきゃ何のためにわざわざこんなガラ空きの暗闇に誘ったのかわからんだろ」


「っえー違うよそれ絶対。空いてるのはたまたまよ、浅羽くんそんな計算しないよ」


「いーやそんな言い訳は許さん。たまたまだろうが何だろうがあんなスキだらけのすえぜんそうあるもんか。いけ浅羽いけっ、せめてそこでちゅーだっ、えぐり込むようにちゅーだっ」


「無理よ浅羽くんには。でもいいわねー若いって。あれでもうちょっととうが立つと電車の中だろうが公園だろうがお構いなしになっちゃうのよね。純情よねー」


 榎本はがっくりと肩を落とした。ため息とともに暗い天井を見上げる。


「──まあなぁ。人のこと言えないか。おれにもおぼえがあるもんな」


「おねえさんウソつきはキライです」


「いやマジな話」


「いいこと教えてあげる。近いうちに庶務と経理と広報の被害者が合同で原告団を結成してあんたを訴えるんだって。すっごい楽しみ。セクハラで世界初の死刑判決が出るかもよ」


「お前さ、むらあたりの言うこと真に受けてないか? ともかくな、おれにだってあさと同じとしの時代があったんだ」


「ないね。あんたに限って」


「お前はじめて男とキスしたのいつだ」


 映画館のやみの中で、しいは赤面した。スクリーンの照り返しを遠く受けて、それははたにはほとんど判別がつかなかった。


「いいでしょいつだって」


「じゃ言わなくていい。けど、おれがお前より遅かったことにかけては自信あるぞ。いいか、おれが初めて女とキスしたのはな、忘れもしない、」


「ちょ、ちょっと。いいわよそんなこと発表しなくたって」


「二十六の秋だ」


 椎名真由美は、いわく言い難いちんもくの後、


「ふうん」


 と言った。そしてすぐに、


「でもあたし聞いたわよ、ちゃんの転入工作の打ち上げでみんなと飲んだじゃない、あのときあんた昔からもてもてだったみたいな自慢話してたじゃない」


「なんだお前よくそんなこと憶えてんな、けどそれもうそじゃない。もてたことはもてた」


「裁判長閣下ー苦しい言い逃れですー被告は己が過去の凶状を隠そうと矛盾した発言をー」


「そりゃあ告白は何度もされたし、よその学校の女からラブレターをもらったこともある。だけどぜんぶ無視した。無視しないまでも、とてもじゃないが実際につきあうまではいかなかった。あのころは、女とべたべたすんのはかっこ悪いことだと思ってた。──なあんてのは自分に対するいいわけで、本当はまるっきり度胸がなかったのさ」


 椎名真由美は、それでもまだ相当に疑わしそうな目つきで、


「──度胸って。いいじゃない、相手から告白してくれるんなら」


「自意識過剰だったんだろうなあ。田舎いなかだったし、だれかと一緒に学校から帰るだけで次の日にはもううわさになる。友達からひやかされる。たったそれだけのことがどうしてもいやだった。告白されるのが本気で恐かったよ。断りゃ相手だって泣くし。ところがな、おれがそうやって断り続けてると、今度は逆にへんな人気が出てくる始末さ。ほかのデレデレしてる男とは違う、えのもとがほんとに好きなのは誰だろう、って。まったく冗談じゃないよな、こっちだって腹の底はスケベな妄想ではちきれんばかりなんだから」


 悲惨な過去というものは、得てしてどこか楽しげな口調で語られる。榎本の口元にもやはり笑みがある。


「おれにだって気になる女のひとりやふたりいなかったわけじゃない。でも、教室の後ろを振り返れば、くだんの気になるあいつがほかの女と一緒になって昼休みにおれがふったやつをなぐさめてる。こっちから告白する度胸なんて逆立ちしたって出てきやしないし、そうこうしてるうちに他の男にかっさらわれたりしてな。本気で悩んだぞ。どうしてこうなっちまうのか、なんでおれだけこんな目にあうのか。で、悪循環の果てにおれがたどり着いたのは、『簡単に女になびいたりしない硬派でかっこいいオレ』っていう、クソみたいなプライドのとりでに立てこもることだった。ゆがみもここに極まれりさ。大学時代までこののろいは解けなかった」


「大学ってどこ」


「地元の国立。そこなら金出してやるって親に言われて」


「で、どんな救いの女神が現れたわけ」


「いやー、わいかったよ」


 ──どこのだれよ、名前は?


 そう尋ねようとして、しいは口まで出かかった言葉を飲み込んだ。


 ここまでの昔話で、えのもとは具体的な名前をひとつも出していない。


 ということは、榎本が真実をしやべっているということであり、当時の榎本がコンプレックス持ちのいち大学生だったというのも本当なのだろう。しかし今は違う。今の榎本は、恐らくアジアで一番やばい男である。内外の色々なところからのマークを受けているし、北も、正体はともかくその存在はつかんでいると思う。そして自分は、榎本よりも遥かに『現場』に近いところにいる。自分がもし、今ここで榎本の昔の女の名前を知ってしまって、この先どこかの手に落ちて自白剤を注射されるようなことにでもなれば、今は結婚して二児の母となって帝都はたかみしろ3の65の2で幸せに暮らしている旧姓・まつが夕食の支度をしようと冷蔵庫を開けたら、野菜室に仕掛けられていた4キロのC4がばくはつするかもしれない。この業界は、本当に何が起こるかわからないのだ。近ごろでは特にそうだ。


「周りが知らない顔ばっかりになったんだ、大学に入るとそうだろ。中学から高校へ上がるときなんかと違ってさ、全国規模のクラス替えみたいなもんだから。なんだか生まれ変わったような気がしてな、基礎ゼミでとなりの席だった女と話をするようになって、今度一緒にどこか行こうってことになった。生まれて初めてのデートさ。どんな所に連れて行けば喜ばれるか必死になって考えたよ。でもなにせ地元だし、このへんにデート向きの気のいた場所なんかないこともわかってた。車も持ってなかったし。で、今となっては自分でも一体どういうつもりだったのか全然わからないんだが、デートの当日、さくらんしたおれは、当時おれが一番よく出入りしていた場所にその女を連れて行ったんだ」


「どこよ」


「釣り堀」


「つ、」


「へらぶなの」


「へ。」


「意外なことにこれがウケた。最初のうちはえさにも触ろうとしなかったんだが、しまいには尺ベラ二枚も上げて大喜びさ。ふたりしてサナギ粉の匂いぷんぷんさせながら帰る途中、絶対また行こうって女が言ってくれた。むこうはひょっとしたら、デートだとは思ってなかったのかもしれない。でもおれはそのつもりだったし、あの成功がなかったら今のおれもないと思う」


 それからしばらく、ふたりは黙って映画を見ていた。


「──で、その二十六の秋に初めてキスしたっていうのも、相手はその人?」


「いや。それはまた別の話」


「ねえ、あたしたちなんでこんな話してんだっけ」


「元はと言えばお前のせいだろ。あさがビビる気持ちもわかるって言ったらお前がてんで信用しないから。いいか、おれは女に関しては血みどろの時代を過ごしてきたわけだ。ほかならぬそのおれが言うわけだ、ゆけ浅羽、えぐり込むように」


 そのとき、大して広くもないスクリーンの中で、主人公のみやもときようが悲鳴を上げた。古ぼけたスピーカーはその悲鳴を何やら人間離れした絶叫に変えて、場内のくらやみの隅々にまでぶちまけた。


 の頭がびくりとふるえた。


 飛び退すさるように浅羽の肩から離れる。


「みーろ。起きちまった」


 言わんこっちゃねえ、とばかりにえのもとにふんぞり返った。伊里野がいきなりうつむいたのか、頭が椅子の背に隠れて見えなくなる。浅羽がけんめいに何か言っている。


「なに話してんのかな」


「映画じゃなくて君の寝顔に見とれてたよ、くらいのこと言やいーのにな」


 早くも自分のことは棚に上げつつある榎本は、そんな勝手なことを言ってかかかと笑い、


「──そうだ」


 足元に置かれていた黒いバッグをひざの上に引っぱり上げた。静かにファスナーを引いてふたを開け、次から次へと中身を取り出す。携帯用の無線機、ノート型のコンピュータ、接続ケーブル、イヤホンふたつ。


「ちょっと、なに始めるの?」


「頭を動かさずに目だけで見ろよ、ここから見て十時の方角だ。後ろから三番目で左から二番目の席にすいぜんがいるだろ」


 しいは口の中で小さく「あ」という声を漏らした。浅羽にべったりくっついた伊里野の姿にのっけから目を奪われてしまって、そんなことはすっかり忘れていた。


「──そっか。じゃあの、となりにいる小っちゃい子がゆうちゃん?」


「隣にすいぜんがいるから小さく見えるだけだ。確か身長は浅羽とそんなに違わんはずだぞ」


 えのもとは忙しく手を動かす。イヤホンを耳にねじ込み、無線機とコンピュータをケーブルで接続してチューニングツールを立ち上げる。


「さっきかじわらが言ってたろ、浅羽が妙な電波出してるって」


「あんたそれ聞いて放っとけって言ったじゃない」


じやしちゃ悪いからな。たぶん水前寺のわざだ。浅羽のかばんか何かにこっそり盗聴器を仕込んで会話を盗み聞きしてるのさ。せっかくだからその電波にただ乗りする」


 周波数は梶原の報告ですでにわかっている。UHFの398・605。市販されている盗聴器によく使われているチャンネルというのはせいぜい6通りほどで、これもそのうちのひとつだった。普段の水前寺ならもっとったをするのだろうが、なにしろ昨日の今日である。大掛かりな準備をする時間がなくて、やむを得ず市販品で間に合わせたに違いない。やつもゆうべはてつだったかもな、榎本はそんなことを考えてにやりとする。


 イヤホンから、めいりような浅羽の声が聞こえた。


 ──あ、あのさ、って授業中もよく居眠りするよね。


「あったりー」


「あたしもあたしも、あたしも聞く」


 榎本がふたつ目のイヤホンを差し出したそのとき、水前寺がいきなり立ち上がった。榎本もしいもとっさに顔を伏せる。水前寺は「TOILET」という矢印の表示のついたドアへと姿を消して、すぐに戻ってきた。

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