正しい原チャリの盗み方・前編 9/12

 半ば強引に連れ込まれた形である。


 さらに、大あわてで家を飛び出してきたゆうの忘れ物は、時計の他にもうひとつあった。


 財布だ。


 というわけで、チケット代はすいぜんが払った。何を考えているのか、水前寺はパンフとコーラとポップコーンをも夕子に買い与えた。なんのつもりだと夕子が問えば、これも変装のうちだと水前寺は答えてひひひと笑った。


 そして夕子は今、がらがらの場内の左後ろの席に座ってぶんむくれている。右どなりには水前寺がいる。スクリーンの中では北方情勢を報じるニュース映画が終わって本編が始まっていたが、水前寺は映画などには目もくれず、小型の双眼鏡で中央あたりの座席に並んだふたつの後頭部をじっと観察しているのだった。


 連れ込まれたとはいえ、水前寺とふたりで一緒に映画館のしきをまたいでしまった。


 もうお嫁にいけないくらいの不覚だと夕子は思う。


 なにが奇遇だ。水前寺はやはり、今日のこの話に一枚んでいたのだろう。兄と電話女の目的地がこのていこくであることも、十時半からの回を見に来ることも最初から知っていて、チケット売り場に張り込んでいたに違いない。そしてまんまとふたりは現れたが、そこに自分というオマケがくっついてきたわけだ。


「──ねえ、」


 双眼鏡を目に当てたまま、水前寺が「ん」と返事をした。夕子はささやき声で、


「どこまで知ってるの?」


 すいぜんもささやき声で、


「ここはひとつ情報交換といこう。隠しっこはなしだ。ではまず君から」


「なんでよ」


「君の持っている情報の方が少ないに決まっている。まずはそっちを聞く方が話が早い」


 ゆうはむっとしたが、


「──ゆうべからお兄ちゃんの様子がへんだった。部屋を調べたら、映画のページに赤丸のついた雑誌と『』ってひとの入部届が出てきた。おにいちゃんの後をつけたら駅前のバスターミナルで泣き虫女と落ち合った。そのとき泣き虫女は泣いてた。それから泣き虫女はきょろきょろ女になって、それから電話女になって、ついさっきここに到着。わたしが知ってるのはそれだけ」


 水前寺は双眼鏡を降ろして夕子を振り返り、


「確認するが、その何とか女というのは伊里野特派員のことかね」


 夕子はやみの中で目を見開き、中央の席に並んだ左側の頭を指差して、


「やっぱりあの人がそう? あの人が伊里野加奈?」


「声が高い」


 夕子は息をむ。思わず頭を低くして、中央の席にいるふたりの様子をうかがう。


「君の情報はなかなかにきよう深い。入部届の話は初耳だな。伊里野特派員が泣いていたというのもおどろきだ。いささか信じ難くはあるが」


「じゃあそっちの番」


 ふと、水前寺がまゆをひそめた。再び双眼鏡を目に当てて身を乗り出す。


「ねえ、そっちの番」


「しっ」


「ずるい」


「いまふたりが話してる」


 水前寺がそう言った。耳の穴に入れるタイプのヘッドホンを片っぽだけ差し出されて、夕子はそのとき初めて水前寺がそんなものをしていたことに気づいた。見れば、ヘッドホンのケーブルの先は水前寺のとなりの席に置かれたバッグの中に消えている。


 夕子はヘッドホンを耳に押し込んでみた。


 何も聞こえない。が、電源が切られているのとは違う。無言電話を聞いているような感じ。


「なにこれ」


「実況中継」


 そのとき、ヘッドホンから兄の声がはっきりと聞こえた。


 ──眠いの?


 そして、夕子の見ている前で、兄の隣にいる頭が首を振った。


 すいぜんは目を丸くしている夕子をちらりと見て、口の端でにたりと笑って、


「今回のデートに先立って、ゆうべあさ特派員と定食屋『しみず』にてヒミツの作戦会議を持った。君が浅羽特派員の部屋で見つけたという雑誌はそのときの資料だ。が、この会議にはもうひとつの重要な目的があった。すなわち、浅羽特派員の持ち物に小型の盗聴器を仕込んでおくことだ」


「そのことお兄ちゃんは、」


「もちろん知らない」


 ひどい、と夕子は思った。人のデートを一体なんだと思っているのか。


 ──眠かったら寝てていいよ。


 また兄の声が聞こえた。


 見れば、兄の隣の頭がぶんぶんと首を振り、しかし、しばらくするとまたこっくりこっくりと舟をぎはじめ、ついにはうつむいたまま動かなくなった。


 そして、その頭が、まるで磁石に引かれるように、兄の方へとゆっくりと傾いていく。


「おおっ」


 水前寺が声を上げた。


 夕子もまた、口を半開きにして見つめていた。ついに眠り込んでしまったと思われるの頭が、兄にべったりと寄りかかっている。頭しかみえないのではっきりとはわからないが、あれでは身体からだの方だって半端なくっつき方ではないと思う。


 水前寺が、まるでコーナーからボクサーに指示を飛ばすセコンドのように、こぶしを握りめて小声で叫んだ。


「浅羽特派員っ! そこでちゅーだっ! 明日のためにちゅーだっ!!」


 が、兄の頭はぴくりとも動かない。


 ずいぶん長い間だったと思う。夕子は、ぴくりとも動かない兄の頭を見つめて、自分でもわけのわからない感情の大波にほんろうされていた。兄は今、すさまじいかつとうの中にいる。映画などもう目にも耳にも入ってはいない。それはわかる。しかし、


 兄は、ちゅーをするのだろうか。


 しないのだろうか。


 自分は、兄にちゅーをして欲しいと思っているのだろうか。


 して欲しくないと思っているのだろうか。


 そのとき、扉が静かに開く音を聞いた。


 外の光が入って場内がほんのわずがに明るくなり、また暗くなった。夕子は何となく背後を振り返り、新たに入ってきた二人連れの客が、最後列の一番右側の席に座るのを見た。人相や細かい特徴は暗すぎてよくわからなかった。


 ──へんだ。


 少しだけそう思った。


 へんだと思うことひとつめ。この映画はどちらかといえば若い人向けである。場内にいるわずかばかりの客も、ほとんどは中学生や高校生だと思う。が、その二人連れはいい大人のように見える。しかもカップルである。大人のカップルがこんな映画を見に来るものだろうか。


 へんだと思うことふたつめ。場内はがらがらで、真ん中あたりのいい場所にも空席がいくらでもあるのに、何を好き好んで一番後ろの一番端っこになど座るのか。すみっこに座っているのは自分たちも同じだが、それは映画とは別に後ろ暗い目的があるからで、


 ということは、あの二人連れもそうなのかもしれない。


 たとえば、くらやみにまぎれてえっちなことをするつもり、とか。

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