正しい原チャリの盗み方・前編 2/12

 二階に上がり、兄の部屋のふすまの前でいつまでもためらっていると電話が鳴った。ゆうは救われたような顔をして、三度目の呼び出し音がなる前にかべ掛け式の子機を取った。


「はいあさです」


 朝っぱらから血圧の高い声がいきなり、


『おお、その声は浅羽くん!』


 すいぜんである。


 ちなみに、浅羽なおゆきは普段から『浅羽特派員』と呼ばれているので、水前寺が『浅羽くん』と言った場合には浅羽夕子のことを指す。


 が、そう呼ばれて喜ぶ夕子ではない。ほかのどんな呼び方をされようともうれしくはない。そもそも水前寺の声など聞きたくもない。


 せっかくの日曜日なのに。


 しかし、水前寺がこうして家に直接電話をかけてくるのは、夕子が知る限りでは初めてのことだった。水前寺は電話が嫌いなはずなのだ。電話での会話はとうちようされる危険が常にあるという、まるで子供のスパイごっこみたいな理由で。以前、兄からそう聞いた。


「兄なら、まだ寝てますけど」


 水前寺はくくくと笑った。


『そんなことだろうと思った。すまんがたたき起こしてくれたまえ。本日、浅羽特派員には重要な任務があるのだ』


 重要な任務。


 その任務とやらが、いつものゆうれいやら宇宙人やらのケツを追い回す話なのだとしたら、水前寺はこうして電話をかけてきたりはしないはずだと夕子は思う。


『──しかしまあ、浅羽特派員の寝ぼすけにも困ったものだな。想像するに、小学生のころには遠足の前の晩になるときんちようこうふんで眠れなくなるタイプだったろう? で、一睡もしていないへろへろの状態で無理して遠足に参加して途中で見事にゲロ吐いて、友達から「ゲロ之」なんてあだ名をちようだいするクチだ。──もしもし聞いているのかね、浅羽夕子応答せよ』


 そこで夕子は保留ボタンを押して、水前寺の長広舌を断ち切った。水前寺の声をそれ以上聞き続けるのは苦痛だった。が、心の底でほんの少しだけ感心してもいた。ゲリラ部とはいえ、に部長を名乗っているわけではないらしい。人をよく見ていると思う。どうしてあだ名までわかるんだろう。


 子機を片手に、ゆうは兄の部屋のふすまの前に立つ。


 ノックをする。


 返事はない。


 もう一度ノックをしてみる。今度はさっきよりも強く。


 やはり返事はなかった。


 深呼吸をして、ひと思いに、力いっぱいふすまを開け放った。六畳間の真ん中に斜めにかれた布団の上で、兄が、まるで力尽きてその場に倒れた遭難者を思わせる格好で寝ていた。


 夕子は、寝ている兄をつま先で突っついてみた。


 兄は目を覚まさない。ぴくりともしない。


 半ばうつ伏せになった兄の顔をのぞき込む。完全に熟睡しているらしいその寝顔を見ているうちに、夕子は何だか無性に腹が立ってきた。


 いきなり兄の耳をつかんで引っぱり、お兄ちゃん、と怒鳴ってやった。



「ほ兄ちゃん!!」


 本人は「お兄ちゃん」と言っているつもりなのだ。が、少し舌足らずなせいで、大声で呼ぶときなどにはそう聞こえる。


 ともかくあさなおゆきは飛び起きた。寝ぼけまなこのすぐ前で恐い顔をしている妹をぼうぜんと見つめる。わけがわからない。普段は口もきこうとしない妹が、なぜ自分の部屋にいるのか。


 なぜか目の前にいる妹は、浅羽に電話の子機を突きつけて口をきいた。


「親分から電話」


 親分てだれだよと思いつつ、浅羽は子機を受け取って保留ボタンを押す。まだ半分くらいは寝ぼけているような口調で、


「もしもしぃ」


 電話のむこうから『スパイ大作戦』のテーマが聞こえてきた。小型のテープレコーダーか何かを受話器に近づけて音楽を流しているのだ。なんだ部長か、と浅羽は思った。眠気がぶり返してくる。布団の上でごろんと横になり、腕で顔をおおって朝の日射しから目をかばう。


『おはよう浅羽特派員。さて、今日の君の任務は』


 思わず声が出た。


 思い出した。眠気はひとたまりもなく消し飛び、浅羽は再び飛び起きて布団の上をいずり回った。時計、枕元に置いたはずの目覚し時計、


『安心したまえ浅羽特派員。現在時刻は午前九時三十二分、急げばまだ充分に間に合う。任務遂行にあたっての要注意事項はきのうアドバイスした通りだ。きちんとおぼえているかね?』


 ゆうべはきんちようのあまり眠れたものではなかった。明日のために少しでも眠っておかなければと思うと、その焦りがプレッシャーになってますます目がさえた。布団の上をもんもんと転げ回るうちに夜はたちまち白み、早起きをするつもりで七時にセットしておいた目覚し時計が突如として鳴り出すに至って、ついに絶望と共に決意した。もうだめだ、もし今から寝てしまったらもう起きられない。このまま眠らずに今日一日を乗り切るしかない。ままならないもので、そう決意すると今度は「眠らなければ」というプレッシャーが取り除けられたせいで途端に眠くなってきた。眠ってはいけない、絶対に眠ってはいけない──そこでふっと意識が途切れ、その次のしゆんかん、妹に耳を引っぱられてたたき起こされたのだ。


 あさをひと晩中責めさいなんだきんちよう感がまた戻ってきた。


 浅羽は思わず子機をにぎりしめてすいぜんの声にすがった。頭の中のおく箱をひっくり返す。任務遂行にあたっての要注意事項、きのうのアドバイス、


「──な、何でしたっけ!?」


『鼻毛は出ていないか、ズボンのチャックは開いていないか、パンツは新しいのをはいているか。以上の三点だ。復唱せよ』


「鼻毛、ズボンのチャック、新しいパンツ」


『よろしい。では、速やかに準備にかかりたまえ。幸運を祈る』


 それきり電話はぶつりと切れてしまった。


 浅羽は子機を放り投げて立ち上がる。とにかく早く着替えようと思って、パジャマのズボンと新しくないパンツを一緒くたに脱ごうとする。と、いきなりものすごい悲鳴が上がり、


「ばか! ばかばかばか! 変態!」


 あわてて背を向けた妹が散々に浅羽をとうする。こいつまだいたのか、と浅羽は思って、


「ま、まだ何か用?」


 妹がちんもくする。背を向けたまま、


「朝ご飯、早く食べちゃえって、母さんが」


 普段の妹なら、そんな用事を言いつけられたくらいでは浅羽の部屋に入ろうとはしない。絶対だ。ほかにまだなにかあるはずだった。


「他には?」


 再び妹は沈黙する。その後ろ姿にどこか物問いたげな雰囲気が漂う。やがて、


「ば─────────か!」


 妹は、そんな捨てぜりふを残して浅羽の部屋から出ていってしまった。最後にじろりと浅羽をにらみ、叩きつけるように、浅羽が首をすくめるくらいの勢いでふすまが閉まる。


 浅羽はあつに取られた。


 なんだあいつ。


 我に返る。今はそれどころではない。押し入れを引っかき回して最初に手に触れたのは、すっかりうすくなったTシャツともう一年もはいているジーンズだった。これではまるで夜中にそのへんの自販機までジュースを買いに行くときのような格好だが、あれこれ迷っているような時間はもうない。無残にも部屋の隅に跳ね飛ばされて転がっている目覚し時計が、思い知れとばかりに情け容赦なく時を刻んでいく。九時三十五分。腕時計と財布と自転車のかぎをポケットに突っ込んで部屋を飛び出す。階段の手すりにつかまって一階まで滑り降り、どたばたと廊下を走り抜けて洗面所に飛び込む。が、そこには先客がいた。あさのジャージにランニングという格好の父が、煙草吸いの性で、歯を磨こうと歯ブラシを口に突っ込んでは雷鳴のような空えずきをり返している。いつものことなので家族のだれも気にもとめない。


「おげっ、おぇぇっ! うぅううぉおおぇぇぇぇぇっ! ──おう、なおゆきおはよう」


 浅羽は物も言わずに父のとなりに強引に割り込み、父と肩をぶつけ合わせるようにして歯を磨き、顔を洗い、


「お前どっか出かけんのか」


 もう少しどうにかならないのかと髪をいじくり回していた浅羽は、父のそのひと言にぎくりとした。


「部活」


 そう答える。うそではない。少なくとも建前では。


「大変だな」


 鼻毛よし。チャックよし。


 洗面所を飛び出す。洗濯物のかごを抱えた母とすれ違う。


「直之、朝ご飯は」


「いらない!」


「ちょっと、どこ行くの?」


 いつしゆんだけ足を止めて茶の間の奥をのぞき込む。この家よりもずっと年寄りの振り子時計が浅羽をき立てる。九時四十六分。


「今日帰り遅くなるから!」


 それだけ言って浅羽は勝手口に滑り込む。ハイカットのスニーカーのくつひもいらたしい。


「直之ぃ!」


 洗面所から父の声、


「出かけるんなら表の看板回しといてくれ!」


 返事もしない。勝手口から外に出る。ビールケースにつまずきながら自転車を押して店の表に回る。看板のプラグをコンセントにねじ込むと、動脈の赤と静脈の青と包帯の白、三色のしま模様がくるくると回転し始める。入り口のドアに下がった札を「CLOSED」から「OPEN」にひっくり返す。自転車にまたがってペダルに足をかけ、そこで思い直して、ブラインドが下りたままの大きな窓に顔を近づけて最後の鼻毛チェックをする。窓にはまるでサルのように鼻の下を伸ばした浅羽の顔が映り込み、その顔にダブってけいこう塗料で筆書きされた五つの文字が並んでいた。


あさ理容店』


 二学期に入って、最初の日曜日。


 ひと月半の夏休みなど下界の都合だ。夏はまだ終わらない。今も浅羽理容店の上空には、学校へ行かなくてもよかったあのころとどこも違わない青が広がる。木製の電柱とたるんだ電線に区切られた、セミが鳴き、輸送機が飛びこうげき機が飛び、UFOが飛ぶかもしれない夏の空だ。


 そのはら駅前のバスターミナルに、十時までにたどり着かなければならない。


 たちまち汗がき出る。浅羽はチェーンも切れよとばかりにペダルを踏む。

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