正しい原チャリの盗み方・前編

正しい原チャリの盗み方・前編 1/12

 毛が生えた。


 まことにわかりやすい理由である。


 そういうわけで、当時小学五年生だったあさゆうは、ひとつ年上の兄と一緒にに入ることを拒否するようになった。


 一緒に遊んだりもしなくなった。


 一緒に出歩いたりもしなくなった。


 さもなくば家出すると親をおどして、それまで一緒だった部屋も別々にしてもらった。


 ところが、兄の方はこの急激な変化の意味をまったく理解しなかった。一緒に何かして遊ぼうと言っては怒鳴られたり、一緒にどこかに出かけようと言っては無視されたり、風呂がわいたよとノックもせずにふすまを開けては物を投げつけられたり、そんな日々がしばらく続いた。


 別々にしてもらった部屋で、夕子はひとり、いつまでも子供みたいな兄をのろうのだった。


 自分はいつもそうなのだ。名字が『浅羽』だから、他によほどのやつがいない限りは自分が出席番号一番であり、出席番号が一番でもいいことなんかひとつもない。ウイルス兵器の予防注射も意地悪な高さの跳び箱も、クラスの中でだれよりも先に自分が挑まねばならない。心の準備をする時間もなく、先を行く誰かの背中をあてにすることもできなかった。いつだってそうだったのだ。


 なのに。


 お兄ちゃんはずるい。


 兄貴のくせに、年上のくせに。



 そんな日々がしばらく続いて、やがて兄も夕子を放っておいてくれるようになり、夕子は六年生に、兄はそのはら中学校の一年生になった。部屋が別々でも夕飯時くらいは顔を合わせるし、兄が新聞部に入ったことも、その部にすいぜんというちょっと変わった先輩がいるらしいことも、夕子はこのころから何となく知ってはいた。


 部屋も別々、学校が別々。


 今にして思えば、あのころが一番へいおんな時期だったのかもしれない。


 平穏の一年が過ぎ去り、園原第一小学校六年三組出席番号一番の浅羽夕子は、園原中学校一年一組出席番号一番の浅羽夕子になった。そして、再び兄と同じ学校に通うことになった夕子がそこで見たものは、校内に並ぶ者無き奇人・水前寺くにひろの腰巾着と成り果てていた己が兄の姿だったのだ。


 とてもではないが、「あの金魚のフンがわたしの兄です」などと言えたものではない。新しい学校の新しいクラスで新しい友達ができたばかりの微妙なころでもあったし、そんなことがバレたらクラスで仲間外れにされる恐れすらある。


 さすがのトロい兄にも多少の自覚はあったのかもしれない。兄は夕子の体面をおもんばかってか、学校では自発的に他人のふりをしてくれていたふしがある。が、夕子はそれでもなお、兄にきつくきつくげんめいした。トロい兄のことだ、要求をはっきりと口に出して申し渡さなければ、ダメ押しをしておかなければ安心できなかった。


 ──学校では、ぜったいに、ぜったいに話しかけないで。


 こうした涙ぐましい努力も決して無駄ではないと、あのころの夕子は愚かしくも信じていたのである。生徒数もさして多いわけではない田舎いなかの学校で、だれかと誰かが兄妹であることを隠し通せるはずなどなかったのだ。


 が、同じバレるにしても色々なケースがあり得る。


 入学式からひと月ほど過ぎたある日のこと、一年一組の教室に、


 昼休みに、


あさくんはいるかねっ!」


 こともあろうに、


「浅羽なおゆき特派員の妹の浅羽ゆうくんっ! そのはら市立園原中学校三年二組太陽系電波新聞編集長姓はすいぜん名はくにひろっ、浅羽夕子くんにひとことあいさつつかまつりに参上したっ! 浅羽夕子くんっ! いるのなら恥ずかしがらずに手を上げたまえっ!」



 理性は言うのだ。すべてを兄のせいにするのは理不尽である、と。



 しかし、夕子はあの昼休みの一件以降、学校だけでなく家でも、何かよほどの理由がなければ兄とは口をきかなくなった。


 一学期が終わり、夏休みが来た。


 兄は、夏休みの間ずっと、どこかの裏山で秘密基地ごっこのようなことをしていた。


 もちろん水前寺と一緒に、もちろん宿題もやらずに。


 UFOを探していたらしい。


 夏休み最後の日の夜、大して広くもないよくそうの中にずっこけて座り、入浴剤の入った湯に鼻の下まで浸かりながら、夕子は最後に兄と一緒にに入ったときのことを思う。


 あのときの兄は、小学校六年生だった。


 あのときの兄に、毛は生えていなかった。


 兄はもう、ずっとああなのかもしれない。ひとりで歩いていかなければいけないのかもしれない。いままでずっとそうだったように、これから先もずっと、兄が自分の前を歩いてくれることはないのかもしれない。



 夏休みは終わり、二学期が始まる。


 そして、そのはら中学校で月に一度の防空訓練が行われ、あさなおゆきがいわゆる『シェルター事件』の渦中の人物となったのは、そのわずか二日後のことである。





 だから、「朝ご飯が片づかないから直之を起こしてきて」と母に頼まれて、ゆうが文句のひとつも言わずに二階へ上がっていったのは、近ごろでは大変に珍しいことなのだった。だめもとで言ってみただけだった母はふきんを片手に目を真ん丸にしている。


「──どうしちゃったのかしら」


 そのとなりの父は、新聞の日曜版から顔も上げない。


「──何が。妹が兄貴を起こしに行っちゃいかんのか」


「そういうわけじゃありませんけど──でもほら、おとといでしたっけ、直之がまたお弁当忘れてったから届けてって頼んだらあの子、ぜったいいやだって」


 父は「ふん」と鼻を鳴らしてもくこうし、「うん」とひとつうなずいて、こう結論づけた。


「ま、難しい年頃だからな」


 日曜版の紙面に目を落としたまま、父はちゃぶ台の上に手を伸ばす。その手の先にあるラッキーストライクのパッケージと百円ライターを母は素早く取り上げて、染みだらけのエプロンのポケットに入れてしまった。父は紙面から顔を上げずに「むう」とひと声うなり、


「推定死者数二千か。今度ばかりは本気で腕まくりをしてるやつがいるのかもしれんな」


 母はどれどれと横から身を乗り出し、父にほおを寄せるようにしてくうばくの記事をのぞき込む。それはまったく若かりし日の父と母のありようをうかがわせる光景で、直之も夕子も見ていないところだと母はたまにこういう隙を見せる。父は記事を読み進めながら、相変わらずちゃぶ台の上を手探りしている。煙草のパッケージは一向に見つからない。


「買い置き増やしておいた方がいいのかしら」


「買い置き?」


「缶詰とか、トイレットペーパーとか。何かあったときのために。そうそう聞きました? こないだも園原基地の方でスパイが出たって話。おまわりさんがいっぱい出て検問をやってて、車で通りかかっただけで色々調べられて大変な目にあったってよしさんの奥さんが」


「出ずっぱりだな最近。休みもなしじゃスパイも大変だ」


「冗談ごとじゃないですよ。──まったく、それもこれもみんな園原基地のせいですよね。スパイの人だってそのはら基地の様子を探りに来てるんでしょう? なんでこんな田舎いなかにあんな大きな基地があるのかしら」


「田舎だからさ。都会の真ん中にあんなでかいもん作れるわけないだろ。空軍基地は滑走路が必要だから余計にかさばるんだ」


「でも、田舎ならほかにもあるんだし。どこかよそに行ってくれればいいのに」


「そんなこと言ったって、うちにだって結構来るぞ。GIの客」


「いくらお店がもうかったって命を取られたらなんにもならないじゃないですか。いまにスパイの人が園原基地にばい菌をくかもしれないって、そしたらこのあたりに住んでる人はみんな巻き添えで死んじゃうって、そういうのをテレビの特番で見たってきよはらさんの奥さんが」


「だからそのばい菌の工場をくうばくでぶっつぶしてるんだろ。園原基地の飛行機が」


「けどいつだったか、ばい菌工場だと思って爆弾を落としたら間違いで、そこはただのお酒の工場か何かだったってことあったでしょ。政治家の人がたくさんクビになったりして。むこうがそう言い張ってるだけかもしれないけど、本当だとしたらずいぶんひどい話ですよ」


狼林ナンリム爆撃だな、今年の三月の。いや、ありゃ本当に酒の工場だったんだ」


 母はまた目を丸くした。


「そうなんですか?」


 父は息子の古いジャージごしに肉のうすしりをぼりぼりといた。


「ばい菌なんて酒の工場でも作れるさ。元になる菌株なんか学術用だって言えばなおゆきの小づかいくらいの金で買える。バイオセイフティレベル4のエアロックとか爆発エアロゾル実験室とか、そういうデカくて金のかかる設備が必要なのは研究開発の段階だけで、実際にブツを生産するときには大げさなものは何もいらない。今日びのバイオリアクターときたら冷蔵庫よりも小さいからな。そんなものどこにだって隠せる。酒の工場なんて言い訳としてはまだマシな方だろ。そのうちやつら、小学校や保育園でおっ始めるかもしれん」


 すぐ横にある父の顔を見つめ、母は目に尊敬の色を浮かべて言った。


「詳しいんですねえ」


 すぐ横にある母の顔を見つめ、父はな表情で答えた。


「結構来るからな。GIの客」


 そのとき、電話が鳴った。母がはいはいと返事をしながら腰を浮かせると、電話機は呼び出し音を二度鳴らしただけで『通話中』のランプを点灯させてふっつりとだまり込んだ。ゆうが二階の廊下にある子機で電話に出たのだろう。母はそのまま、うん、と背伸びをする。立ちついでにせんたく物でも片づけてしまおうかと思う。


 そのときふと、


「でも、ほんとに保育園でばい菌を作ってたら、保育園にも爆弾落とすのかしら」


 父は、あらかたの記事を読み終えた日曜版をバサバサと不器用にたたむ。「むう」とひと声うなり、「うん」とひとつうなずいて、こう結論づける。


「ま、難しい時代だからな」


 そして、ちゃぶ台の上をまじまじと見渡して、確かに置いたはずの煙草とライターがなくなっていることにやっと気がついた。

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