ラブレター 17/19

 それから後のことについては、少々のおくの混乱がある。



 はいごめんはいごめんと野次馬をかきわけ、顔パスでシェルターの中にぺたぺたと駆け込んできたしいは、硬直したままの浅羽の手から注射器をもぎ取り、まるでマナ板の上の野菜でも切るような、本当になんでもない手つきで伊里野の胸に針を突き立てた。


 そして、椎名真由美は浅羽の耳元に口を寄せ、何事かをささやいた。


 ──だれにも内緒って約束できるなら、米空にかけあって銀星章シルバースターもらってきてあげる。


 あるいは、聞き違いかもしれない。


 しかし、確かに、何かそれに類するようなことを言われたような、そんなおぼろげなおくあさにはある。



 かくへきの前で発生したうわさは、浅羽よりも先に教室に戻ってきた。


 あの後、いかにして教室まで戻ってきたのかについての記憶も、浅羽の頭の中からはすっかり消失してしまった。が、防空壕シエルターの外にある日常は核の炎に焼かれてはおらず、宇宙人に侵略されてもおらず、昼休みの次は五限目で、五限目の次は六限目なのだった。


 授業の内容など、まるでおぼえていない。



 は五限目を保健室で過ごし、くそにも、六限目が始まるころに教室に戻ってきた。だれとも、浅羽とすらも目を合わせることなくだまって席についたのは、さっきまで鼻血を出して白目をむいてけいれんまでしていたのがウソのような、あっけないくらいにいつも通りの、無表情な伊里野だった。


 救急車で病院に運ばれたというなら話は別だっただろう。


 が、保健室でしばらく休んで教室に戻ってきたというのは浅羽以外の全員にとって実に意味深に思えるわけであり、いつも通りのはずの伊里野の無表情は、「押し倒されて乱暴されかかった女の子の無表情」と見えなくもないわけであり。


 六限目が終わり、掃除が終わり、


あき、部長が記事の割り付けやるって言ってたから今日は」


 そこでいきなり、晶穂は振り向きざまに斜め上からたたき下ろすような、浅羽がたたらを踏むくらいのびんたを見舞った。


 あっぱれな紅葉もみじが焼きついた浅羽のほっぺたに視線を突き刺し、突き刺したその視線を最後まで横目で残しながらきびすを返して、晶穂は足早に教室を出ていった。


 ほっぺたを押さえてぼうぜんとする浅羽の両肩に背後からぽんと手が乗って、


「かっこいいですなー浅羽くん」


 はなむらがそう言い、


「いやあ、おれ男が女に殴られるとこナマで見たの生まれて初めてだわ」


 西にしがそう言った。浅羽はようやく我に返り、空の彼方かなたを見るような視線を、晶穂が出ていった教室の扉に向けた。


「西久保──」


 今日は、部室に顔を出すのはやめにしようと思う。


「──ラーメンおごってくれ」


 西久保は、重々しくうなずいた。



 帰り支度をして三人で教室を出た。昇降口へたどり着くまでに、あさを見て「あ、」という顔をした通りすがりが何人もいた。


「すっかり有名人だな」


 はなむらがそう言って笑う。


 なんだかなあ、と浅羽は思う。


 申し開きをしようとすれば、結局はあのプールでの出会いに行き着く。最初の最初からすべてを説明して、一体何が起こっているのかは自分にもよくわからないのだと正直に言うしかなくなる。


「ま、」


 西にしばこから取り出したかかとつぶれたスニーカーを放り投げ、


「色々とごちゃごちゃ言うやつらはいるだろうけどさ、おれはお前の味方だ」


 あのプールの一件以降、自分は現実から足を踏み外しかけていると浅羽は思う。何が起こっているのかわからないし、不安もあるし、時に恐怖を覚えることもある。しかし、好奇の視線とひそひそ話の包囲をどうにか生き延びて、浅羽は今、ようやく自覚しつつあった。


 深みに引き込まれている最大の原因は、心のどこかに、と秘密を共有しているかのような今の関係を手放したくないと思っている自分がいるからなのだ。


「そこでだ。味方としてひとつ尋ねる」


「なに」


 ひと呼吸置いて、西久保はげんしゆくな面持ちで浅羽を見つめ、


「──やったのか?」


 そうきたか。


 苦笑いの一本やりで切り抜けてしまうのが一番であるように思えたので、浅羽はそうした。するといきなり花村が身をよじるようにして、


「言えようっ!!」


「な、なにマジで怒ってんだよ」


 そう言いながらも、浅羽の口元に浮かんだ笑みには苦味がうすれている。ひそひそ話をされるより、こうしてド正面からり込まれた方が腹も立たない。真相が真相なだけになおさらだ。浅羽は「言わぬがはなだよ」とうそぶき、下駄箱のフタを開け、


 閉めた。


「トイレ」


 西久保と花村が同時に、


「あ?」


 演技をした。気持ち背中を丸めて腹を押さえ、大げさすぎない程度に顔をしかめ、


「何だか急に腹の具合が、ごめん先に帰ってて、ラーメンはまた今度にしてよ」


 早口にそう言って、ぬぎかけていたうわきを飛ばすように履き直し、あつにとられている西にしはなむらをその場に残し、あさはいかにも慌てたそぶりで小走りに昇降口を後にする。



 そう言った手前、本当にトイレに行った。


 先に帰れと言い置いたし、西久保も花村もどちらかと言えば気が短い方だし、まさか自分がトイレを済ませるまで昇降口で待っているなどということはあるまいと思ってはいた。それでも浅羽は念には念を入れて、ご丁寧にもズボンとパンツを下ろして便座に座り、しばらく個室にこもって時間をつぶすことに決めた。


 ケツ丸出しの三十分が過ぎた。


 浅羽は下げなくてもよかったズボンを上げ、流さなくてもいい水を流し、洗わなくてもいい手を洗ってトイレを出た。昇降口に向かう。知らず知らずのうちに忍び足になっている。一歩ごとに鼓動が速まる。昇降口の前を一度素通りして、西久保と花村の姿がないことを横目で確かめる。


 よし。


 足を止め、回れ右をして昇降口に駆け戻った。自分のばこのフタに手をかけ、深呼吸をひとつ、開けた。


 やはり、見間違いではなかった。


 あられもないピンク色の封筒が、しばらく洗っていない25のスニーカーに立てかけられていた。


 生まれて初めてのことだった。


 封筒を引ったくる。裏返してみる。その途端に、右下に書き込まれた名前が目に飛び込んでくる。


『伊里野 加奈』

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