ラブレター 16/19

 ──なんだ、いまの。


「伊里野?」


 浅羽は思わず身じろぎすると、微妙なバランスで浅羽の背中にもたれかかっていた伊里野の身体からだが右に滑り落ちた。ごつん、という音を立てて頭が床にぶつかり、自分の髪の中に伊里野は横向きに倒れ込む。かなりの量の鼻血がどろりと流れ出し、うすく白目をむいて、かすかに手足をけいれんさせている。


「伊里野!? ねえ、どうしたの!? 大丈夫!? 聞こえる!?」


 浅羽の呼びかけに答えるかの如く、伊里野が「かっ」と鼻血混じりの息を吸い込む。身体を仰向けにして手を握ってみると弱々しく握り返してくるが、それは意識の介在しない反射的な行動にすぎないのかもしれない。浅羽はポケットからハンカチを引っぱり出してけんめいに伊里野の鼻血をぬぐった。もっとましなことができないのかと自分をののしるが、ほかに何をすればいいのかまるで思いつかない。わけがわからない。どうしていきなりこんな──


 思いつく、


 電話、


 伊里野の手を振り切って電話に飛びついた。受話器を引ったくる。何番に電話すればいいのかわからないことに気づいて絶望し、しかしよく見ると電話機にはダイヤルもボタンもついておらず、


『──もしもし、伊里野か?』


 唐突に回線のつながるノイズが聞こえ、えのもとが電話に出た。


「え、榎本さん!? もしもし!? 鼻血、鼻血が出て、ゲームしてたらいきなりが倒れてちっとも動かないし手足がふるえてるし! もしもし!?」


 滅茶苦茶なことを言っていると自分でもわかっていたが、どうにもならなかった。これではこちらの状況が相手にうまく伝わるわけがない。いらたしさのあまり死にそうになる。が、榎本は冷静な口調で、


『落ち着けあさ。落ち着いて答えろ。伊里野が鼻血を出したのか?』


「鼻血を出していきなり倒れて、さっきまで元気だったのに急にぐったりして!」


『鼻血を出して倒れたんだな? 意識はあるか?』


「わ、わかんない、わかんないよ!」


『落ち着け。いいか、伊里野の太ももの内側を思いきりつねって反応するかどうか確かめろ』


 浅羽は受話器を手にしたまま伊里野のもとに取って返し、無我夢中でスカートの中に手を突っ込み、太ももをつねった。


 まるで反応がなかった。


 伊里野は声も上げず、身動きもしない。


「動かない! 動かないよ! どうすればいい!?」


 榎本は即答しなかった。浅羽にとっては永遠にも思える数秒が過ぎて、


『──浅羽、聞いてくれ。お前は悪くない。お前が何かしたとかしなかったとか、そういう理由で伊里野がそうなったわけじゃない。原因には心当たりがある。これは、100パーセントこっちの問題で、お前が責任を感じる必要はどこにもないんだ』


「そんなのどうだっていいから!! どうすればいいんだよ!?」


『お前らがそこに閉じ込められた直後から、そのはらかげの四課がそっちのかくへきのRSA暗号かぎにアタックをかけてる。あと少しでどうにかなりそうなんだが、間に合わないかもしれん。だから、今はお前だけが頼りだ。いいか、まず、伊里野のポケットの中を全部あさってみろ。無地のテレホンカードが出てくるはずだ。裏も表もグレー一色で、』


 そんなのは自分だって持ってる。すぐさま自分の財布から取り出して、


「あった!!」


『よし。次だ。電話機のある場所から見て右手すぐのところに、『丙─零弐』って表示のついたコンテナがあるはずだ。見えるか?』


 浅羽はコードレスの受話器を手に駆けずり回り、近くの格納コンテナの表示を片っ端から調べていく。4つ目で、


「丙の零弐!! あったよ!!』


『いいぞ。さっきのテレホンカードを、扉の横にあるデコーダーに』


 通し、コンテナの扉が自動的に、


「開いた!!」


 重ったるい冷気がどっとあふれ出てくる。コンテナの中は、


『冷凍庫みたいになってて、細かい仕切りがあって、救急箱くらいの大きさのケースが山ほど入ってる。確認しろ、その通りだな?』


 その通りだった。


『その中から、「P─3KI」っていうラベルのられたケースを探すんだ』


 絶望的な気分になった。コンテナの中には、同じようなケースがざっと見ただけで百個近くも詰め込まれているのだ。


「どれ!? どれがそうなのかわかんないよ!」


『探せ! 七月ごろに入れたばかりだからわりとすぐ手前のどこかにあるはずだ!』


 あさは冷凍コンテナの中に上体を突っ込んだ。仕切りのフレームからケースを次々と引っぱり出す。中の冷気はうかつには息もできないほど冷たく、危険なほど冷却された周囲の金属にがべたべたとくっつく。が、そんなことに構ってはいられなかった。目的のケースは本当にこの中にあるのか、ひょっとしたら別のコンテナなのではないか、そんな不安に耐えきれなくなったころ、


「あった!! あったあったあったあったあった!!」


 雲のような白い息を吐きながら受話器に叫んだ。


『電源のケーブルを外してのところに持っていけ』


 浅羽はケースを振りまわしてソケットからケーブルを引きちぎり、コンテナの中から転がり出て伊里野の傍らにい戻る。


「次は!?」


『ケースのフタを』


 開けた。


 そして、中をのぞき込んだしゆんかん、自分がこれから何をしなければならないのかを悟って気が遠くなった。


 そこにあったのは、二本の、リレーのバトンほどもある、ステンレスの注射器だった。


「──で、できないよ、こんなの無理だよ!!」


 えのもとが深呼吸をする音が聞こえた。


『そいつを、伊里野の心臓に注射しろ』


 目の前が真っ暗になった。


『いいか、そんなに難しいことじゃない。その注射器は伊里野が今みたいな状態に陥ったときのことも考えて、そばにいるだれでも使えるようにデザインされてる。薬はガス圧で自動的に注入されるし、針もちょうど心臓に届く長さになってる。力いっぱい突き刺せばいいんだ。に手加減したりするとかえってまずい。注射をする位置は伊里野の胸にマークがある。確認しろ、のシャツをめくってブラジャーを外せ』


「む、胸って! そんな!」


 えのもとがついに怒鳴る。


『いまさら同級生の胸でビビるタマじゃねえだろうが!! 小六まで妹と一緒に入ってたのはどこのどいつだ!!』


 あさも怒鳴り返す。


「なんで知ってるんだよそんなこと!!」


 涙まで出てきた。


 よりにもよってなぜ自分なのか。なぜ自分がこんな目にあうのか。


 涙目で見つめる。床に横たわったまま身動きもしない伊里野の顔。血の気が失せている。でたらめにぬぐった鼻血の跡がこびりついている。うすく白目をむいた右目から、一筋の涙がほおへと伝い落ちている。


 その目が、浅羽の助けを求めていた。


 伊里野はあのとき、助けを求めていたのに。


 なかごみたちに話しかけられて、どうしたらいいのかわからなくなって、プールでおぼれたあのときのように、伊里野はけんめいに自分にすがろうとしていたのに。


 あのとき、自分はトイレに逃げた。


 でも、今は、どこにも逃げられない。


 だれも助けてはくれないのだ。自分がなんとかしなければならないのだ。


 浅羽は、伊里野の細い腰の上にまたがった。体温もあれば手触りもある、現実リアルな女の子の身体からだがそこにはあった。えそうになる度胸を鼓舞するために、わざと乱暴な手つきでシャツをあごの下まで一気にめくり上げ、引きちぎるようにブラを外した。


 ふたつの胸のふくらみがあらわになった。


 息をむ。


 その中ほど、ちょうど心臓があると思われるあたりに、血液型の表示と、逆三角を閉じ込めた円のマークの刺青いれずみがあった。


 受話器に告げる。


「──じゃあ、やるから」


 受話器が答える。


「──たのむ」


 傍らに受話器を投げ出す。


 頭の中が白く染まっていく。その白は空白の白ではなく、白熱の白だ。


 注射器を振り上げる。


 身体中に汗が吹き出る。


 に手加減したりするとかえってまずい。


 あさは、振り上げた注射器を、一気に



 重い岩を落としたような、腹にひびく震動が空気をふるわせた。



 かくへきの作動音だった。ぶ厚い扉が外にむかってゆっくりと開いていく。床の上に放り出されていた受話器がえのもとの声で何か叫んでいる。ぶ厚い扉のすきまから日の光がさし込み、荒々しい夏の熱気が髪を揺らすほどの勢いでなだれ込んでくる。人の声、けいほうがどうしたとか有毒ガスがどうしたとか叫ぶ声、危険だから教室に戻りなさいと叫ぶ声、そして、その背景を色く塗り込める大勢のけんそう。それらの声のすべてが、まるで水でもかけられたかのように、たちまちのうちにちんもくしていく。


 浅羽は、ゆっくりと振り返る。


 防空壕シエルターの外には複数の白いバンと複数の兵員輸送車と、ぼう服に身を固めた化学兵器処理班と野戦服姿の兵士たちと生徒の大群がいた。防護服たちは防空壕の中に駆け込んできたところで棒きれか何かのように立ち尽くしている。防毒マスクのアイピースの下で目がまん丸になっている。馬を押し戻そうとしていた野戦服たちも押し戻されまいとしていた野次馬も、全員がそろって口を半開きにして、ズボンのチャックが開いていますよと注意されたときのような顔をしている。全員の注視が集中するその先、方位磁石だってこのしゆんかんだけは北ではなくそこを指差したに違いないその場所で、転校生のは胸をはだけて横たわり、その上にまたがっているのはほかでもない、そのはら中学校二年四組出席番号一番の、浅羽なおゆきだった。



 なすすべは、なかったと思う。


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