ラブレター 13/19

 伊里野は、浅羽の手をつかんだ。


 そして、その手にものすごい力がこもった。


 周囲の誰もがおどろいて見守る中、伊里野は跳ね起きて、浅羽の手を引いて走り出した。教室を飛び出し、廊下を駆け抜ける。


「ど、どうしたんだよ!? ちょっと待──」


 それ以上は言葉にならず、伊里野も聞く耳を持たない。浅羽の手を引いて伊里野は走り続ける。けんめいに足を動かしているはずの浅羽をなお引きずるような、とんでもない速さだった。防空委員の指示で、あちこちの教室から生徒たちが廊下にぞろぞろと出てくる。のろのろとかべぎわに並び、もたもたと床にうずくまってカメになる。たいばく姿勢。生徒手帳の63ページ、「有事ノ際ニハ」の項で図解されている通りの姿勢。核ばくげきの一次しようげきをやり過ごすために。戦争が始まっても生き延びられるように。


 サイレンは鳴り続ける。


 走り続けていたが、廊下に居並ぶカメどもの真っ只中でいきなり足を止める。


 信じ難いものを見る目つきでカメの群れを見渡し、絶望した心をなお振り絞るような大声で叫ぶ。


 何をしているのか、と。


 そんなことをして何の役に立つのか、と。


 立ち上がって走れ、死にたくなかったら自分の後に続け、と。


 だれひとり立ち上がらない。すぐそばにいるカメが大声におどろいて顔を上げ、「なにさわいでんだこいつ」程度の目つきで伊里野を見上げる。


 それは、奇妙な光景。


 それは、あさがこれまで一度も見たことのなかった光景。


 それは、これまではずっとカメになるばかりだった浅羽が初めて目にする、身の丈の高さから見下ろす防空訓練の光景。伝統的に散らかった廊下に居並ぶカメの列はこうして立ち上がって見ると思いのほかこうしており、積み上げられたダンボール箱や掃除用具のロッカーの陰などには必ず数匹のカメが互いの肩をぶつけるようにして身を寄せ合っている。見ればひと目でわかる。おそらく無意識のうちの行動なのだろうし、本人たちに問いただしてもそんなつもりはないと否定するだろうが、ダンボール箱や掃除用具のロッカーの陰に隠れれば、そのはら基地の上空でさくれつする核弾頭の爆圧から身を守るせめてもの足しになるのではないかと心のどこかで思っているのだ。走り抜けてきた廊下のずっと向こうにかわぐちたいぞう三十五歳独身がいて、おい何してるんだそこの二人、お前らもさっさとかべぎわにうずくまってカメになれ、両腕を振り回してそんなことを叫んでいる。今の浅羽には、河口のその姿がれいのカメをこき使う獄卒か何かのように見える。


 ──そう言うあんたこそなぜカメにならない。


 浅羽は、そう思った。


 このサイレンが鳴り始めたしゆんかん、あんたはどうした。ほかの連中と同じように凍りついていたんじゃないのか。訓練だと気づいた今でこそデカい顔をしているが、そうやって偉そうに怒鳴る以上は本物のサイレンが鳴ったときにも同じようにしていられる自信があるんだろうな。まさか、何もかも放り出して一目散に逃げ出したり、ダンボール箱やロッカーの陰にいる生徒を押しのけて自分がカメになったりはしないよな。大体、この廊下の光景を見ておかしいと思わないのか、何かが間違っていると思ったことは一度もなかったのか。これまでずっと、防空訓練があるたびに、この廊下の光景をその身の丈の高さから見下ろしてきたくせに、いまさらあんたにカメになれなんて指図されたくはない。


 サイレンは鳴り続ける。


 は、いつまでも立ち止まってはいなかった。あさの手を引いて再び走り出す。飛ぶような勢いで階段を駆け下り、体育館へと続く渡り廊下からうわきのままグランドに飛び出す。浅羽はもう息が続かない。転ばないようにけんめいに足を動かし、伊里野の後に続いて走る。


 防空壕シエルターかくへきの前まで、それこそあっという間にたどり着いてしまった。


 隔壁は大型車両が二台並んで楽に出入りできるほどの大きさで、見るからにぶ厚くて、スタミナドリンクや殺虫剤のホーロー看板がべたべたとられていた。


 浅羽はようやく足を止め、息も絶え絶えにその場にへたり込んだ。


 防空訓練では、実際に防空壕の中に入るところまではやらない。隔壁の前で整列して人数をかぞえて終わりだ。そもそもこの隔壁の開け閉めはそのはら基地が直接制御しているという話で、浅羽はこれまで防空壕の中を見たことは一度もない。


 が、伊里野は、その開かずの扉のスリットにグレーのカードを突っ込んで、あっけなくロックを解除してしまった。隔壁がゆっくりと開き始める。手前にせり出してぐる扉の断面は、これほどのものだったのかと目を見はるくらいにぶ厚かった。


 伊里野は再び浅羽の手をつかむ。


 浅羽はいずるようにしてその後に続く。


 初めて目にする防空壕の内部は体育館ほどの広さで、意外と清潔な感じがした。床には大きなハッチがいくつも並び、病院の廊下のような色とりどりのラインが引かれている。そこらじゅうの回転灯が黄色い光を振りまき、どこかにあるスピーカーが、録音された女性の声で同じことをり返ししやべっていた。


『ルートコードが使用されました。現在、すべてのロックが解除されています。ルートコードが使用されました。現在、すべてのロックが解除されています』


 突然、重い岩を落としたような、腹にひびく震動が空気をふるわせた。


 浅羽がおどろいて振り返ると、さっきまで2メートルほど開いていたはずの隔壁が、ぴったりと閉ざされていた。伊里野は隔壁の横のパネルを何やらそうしており、スピーカーからの女性の声が、


『ルートコードが変更されました。隔壁の暗号ふうは完了、外部との回線を物理しやだん、空調は完全自閉方式に設定されます。ルートコードが変更されました』


 驚いて、


「し、閉めちゃったの?」


 伊里野は答えない。パネルのキーをさらにいくつかたたくと、床のハッチがせんすいかんのミサイルサイロのように次々と開き、その下から格納コンテナがせり上がってくる。


「──あ、あのさ、」


 浅羽はようやく、


「さっきのサイレン、訓練だってわかってる? 月に一度の防空訓練。今までの学校にはそういうのなかった?」


 いつしゆんだけ虚をかれたようだったが、すぐにその表情を吹き消した。格納コンテナのひとつに駆け寄って、グレーのカードをデコーダーに通して扉を開ける。


「ねぇ聞いてよ、転校してきたばかりだから知らなかったかもしれないけど、今日は前々から訓練の日ってことになってたんだ。それに、普段の訓練だったら、」


 普段の訓練だったら、サイレンが鳴る前に、「これから訓練を始める」というむねの放送が流れたはずなのだ。


 なのに、さっきは放送なしでいきなりサイレンが鳴った。


 あさの腹の底に、小さな穴が開いた。


 ──今日が訓練の日。それがどうした。そんなことが何の保証になる。


 鹿鹿しい。考えすぎだ。戦争なんてどうせ、いつまでたっても始まりはしないのだ。放送なしでサイレンが鳴ったのも、防空委員のなかむらが余計な色気を出して、


 ──その中村がいまごろ、放送室で青くなって小便を漏らしているとしたらどうだ。この学校で最初に事の重大さに気づいたのはやつだろう。なにしろ、自分はまだボタンを押していないのに、直通回線で一次けいほうが鳴ったんだからな。


 ウソだ。そんなことあるもんか。今日は防空訓練の日だってずっと前から決まってたんだ。みんなで廊下に出てカメになって、防空ごうの前に並んで人数をかぞえて、


 ──じゃなにか、敵は、「今日はそのはら中学校の防空訓練の日だし、まぎらわしいといけないからくうばくは明日にしよう」とか、そういう心配をするわけか。いいかげんに現実を見つめろ。もう一度言うぞ、サイレンは鳴った。そして、そのサイレンが訓練であることを保証する放送は、なかった。それが現実だ。


 違う。今回は特別なんだ。中村先生はやる気満々で「今回のテーマはリアリズム」だって。あきがそう言ってたんだ。だから、


 ──だから何だ。言ってみろよ。


 浅羽の腹の底に開いた小さな穴が、どんどん大きくなっていく。


 その穴から、日常がどんどん染み出して消えていく。真っ黒な虚無が後に残される。


 ──なんだそのツラは。まだわかっちゃいねえようだな。中村が言ってたんだろ、「今回のテーマはリアリズム」だって。リアルってなんだか教えてやろうか。これだよ。これが現実リアルだ。皆さんお待ちかねの本物の空爆さ。おい、どうしたんだよ。本当の戦争になったらシェルターの中にいても爆音くらいは聞こえると思ってたか。そんな時代遅れのシェルターで今日びの空爆をやり過ごせるとでも思ってたのか。まあいいや、知らない方が楽しめるってこともあるだろうしな、余計なこと言うのはもうやめとくよ。さあ、ここから先はお前次第だ、本当にてめえの首がかったショータイムの始まり始まりだ。どうせいつまでたっても始まりゃしないとだれもが高をくくってた、そのくせ退屈な日常に飽き飽きして心の底では誰もが待ち望んでた、これが本当の戦争だよ。


 肩をつつかれた。


 顔を上げると目の前にがいて、


「持ってて」


 差し出された物を見た途端に、あさの胃のがよじれた。人間工学的にデザインし尽くされた意外な姿形をしていたが、それが一体何なのかは、浅羽にもひと目でわかった。


 自動小銃だった。


「念のためだから」


 身体からだがしびれたようになって、指一本動かせなかった。


「中まで入ってくるかもしれないから」


 伊里野はすでに同じ小銃を肩にかけていた。足もとに転がしたいくつもの小型コンテナを視線で次々と指し示して、


「ボールのスペアはここ。BS4パッケージの中身はボットトックス弾。効かないかもしれないけどわたしがいいって言うまで使わないで。ぼう服はそこ」


「──うそだろ」


 かすれた声で浅羽はつぶやく。


「やっぱり訓練なんだろ。外ではやっぱりみんな無事で、ぼくらのこと笑ってるんだろ。戦争なんてどうせ、いつまでたっても始まらないんだろ」


 自動小銃を差し出したまま、上目づかいに浅羽を見つめ、伊里野は、


「一九四七年から、戦争は始まってた」


 そう言った。


「みんな、気づいていなかっただけ」


 みんな、灰になっているのかもしれない。


 あのかくへきの外にはもう、自分の知っている世界はないのかもしれない。ごうが荒れ狂い、校舎も街もれきの山と化して、自分が知っている人の全員が、知らなかった人の全員が、性別の判断もつかないほどに焼け焦げた死体となり果てているのかもしれない。


 浅羽は、まるで力のこもらない腕を伸ばし、差し出された小銃に、ふるえる手を、



 電話が鳴った。


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