ラブレター 7/19

 浅羽はその後、五限目は図書室で時間をつぶし、六限目の現国にはきちんと出席した。伊里野は職員室に呼び出されたままついに戻らず、現国のじきから「事情があって早退」という説明があった。


 そして、掃除の時間になって初めて、浅羽は伊里野の「あっちいけ」発言について聞かされた。浅羽が「トイレ」と言い残して教室から逃げ出した後、伊里野は机の周りを取り囲む中込たちに向かって、こう言ったらしい。


 うるさい。あっちいけ。


「すごかったんだぞお前」


 れ雑巾で拭いたばかりの黒板に寄りかかって、西にしうなるように言う。


なかごみなんか泣いちまうしさ。その他三人はもーかんかんに怒っちゃって、」


 はなむらは教卓の上に座って、足の先にほうきを立てて器用にバランスを取っている。にやにや笑いながら口で、


「『そういう言い方ってないでしょ!?』とかな」


 西久保がうなずき、


「そりゃもうすげーさわぎ」


「『なに考えてんのもー信じらんない!!』とかな」


 西久保はさらに、


「けどな、の方は何言われても涼しい顔してんだよ。こりゃ見かけによらずいいタマだなあと思って見てたらさ、いきなり片っぽの鼻の穴から鼻血がつつー、ぽたぽたぽた、って」


 あさは思わず「え?」と聞き返してしまう。


「いやだから鼻血だよ。鼻から出る血」


 塩素の匂いが、タオルを染めた鼻血の赤が浅羽の脳裏によみがえる。


「とにかくさ、ぎゃーぎゃー騒いでた女どもが伊里野の鼻血こうげきでフナ虫みたいに引いたわけ。伊里野はそのスキにさっと教室を出て行っちまって、三限目のかねが鳴ってから鼻にチリ紙のぽっち詰めて戻ってきてさ」


 浅羽は、伊里野が鼻にチリ紙のぽっちを詰めているところを想像しようとしてみたが、少しもうまくいかなかった。


「で?」


 続きを促す浅羽を、西久保は鼻で笑う。


「決まってるだろ。それからはみんなもー触らぬ神に何とやら状態」


 そうだろうな、と浅羽は思う。


 なにしろ「あっちいけ」だ。自分が保健室でくたばっている間に、伊里野は今日一日で早くも孤立してしまったのだろう。中込たちのグループはクラスの中でも一大勢力だから、ほかの女子も「敵の味方は敵」という図式に巻き込まれることを恐れて、伊里野には手が出せない状況になってしまったはずだ。伊里野としても教室には居づらかっただろうし、昼休みにはやはり校舎のあちこちをあてもなく歩き回っていたのではないか。だれからも何も言ってもらえずに教室移動からひとり取り残されてしまったのも無理はない。


 罪悪感がつのる。


 自分があのとき、何かをしてやれないまでも、せめてトイレに逃げたりしなければ、伊里野も「あっちいけ」などとは言わずにすんだのかもしれない。


 おまけに、無断でかばんを開けて中身をあさっている現場を押さえられてしまった。


 せめてひとことあやまろう──そう思っていたのに。しろのハゲがを呼び出したりしなければきっと今ごろ、


「ちょっとそこの三人、サボってないで机運ぶの手伝ってよ!」


 とうとうあきに怒られた。こわい顔でにらみつけられて西にしはなむらは嫌々ながらも掃除に戻るが、あさはその場に立ち尽くしていつまでも考え込んでいる。晶穂は浅羽の頭をほうきでぼかりとたたき、


「なにぼーっとしてんの。さっさと、」


 そこで急に真顔になって、


「ねえ大丈夫? 平気? もしかしてまた気分が悪いの?」


「──え? 何か言った?」


 いつものボケぐせか、と晶穂は小さくため息をついて、


「あ、そうだ浅羽、今日はあたし部活休むね」


「? どうして」


「これから防空委員だもん。明日の説明聞いたり準備したり」


「──そっか。防空訓練って明日だっけ」


 図書委員は図書室の雑務をこなすのが仕事であり、保健委員はケガをしたり気分が悪くなったりした生徒を保健室に連れていくのが仕事であり、防空委員は防空訓練時に生徒のゆうどうをしたり数を数えたりするのが仕事である。普段は何もすることがないので、比較的「チョロい委員」として生徒には人気がある。


 晶穂は苦笑いをして、


なかむら先生がはりきっちゃってさ、『今回のテーマはリアリズム』とか言って。きっと遅くなるし、今日はまっすぐ帰るから部長にもそう言っといて」


「わかった」


 浅羽は生返事をした。掃除に戻る。脳ミソのマッピングを変更して、九割を物思いに、残り一割を首から下の制御に割り当てて、適当に机を運び、適当に箒を動かし、適当にゴミを捨てる。やることが自動的すぎて、いつの間にか人より余計に働いてしまっていることにも気づかずに、浅羽は伊里野のことをぼんやりと考え続ける。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援した人

応援すると応援コメントも書けます