ラブレター 5/19

 暑くて目が覚めた。


 宙に漂うホコリがかがやいている。窓からの日射しは眠っている間に大きく角度を変え、仕切りのカーテンをぶち抜いてあさの顔面を斜めにあぶっていた。両腕で目をかばい、寝汗で湿っぽくなったタオルケットをりのけて身体からだを起こす。


 気分は悪くない。めまいもしない。


 電話でだれかとケンカする夢を見ていたような気がする。


「──しい先生?」


 カーテンのすきから顔を突き出す。椎名の姿はない。かべの時計を見て少しおどろいた。昼休みも終わり、五限目が始まっている。


 教室に戻るのは、なんだか気が進まなかった。


 今日はこのまま帰っちまおうか、と少しだけ思う。


 一応は「教室に戻ります」というメモを椎名真由美の机に残し、保健室を出て、ひと気のない廊下を歩きながらもぐずぐずと迷っていた。今日は水曜日であり、水曜日の五限目は英語であり、英語のきしもとは実にイヤミなおばはんである。やっぱり五限目が終わるまでは保健室にいた方が利口なのではないか──そう思ったときには、もう教室の前まで来ていた。


 そして、教室には誰もいなかった。


 黒板にはチョークの腹で書いたとおぼしき太字で、


『五限の英語は視聴覚室』


 今日はとことん授業にえんのない日だ、と浅羽は思う。


 殊勝な気分はいっぺんにさんしてしまった。


 やっぱり帰ろう。


 今度こそ腹を決めて、断固として帰り支度を始めた。視聴覚室で英語の授業と言えば聞こえはいいが、岸本のそれは字幕OFFの映画を見せて感想を英語で書かせるだけの、要は手抜きなのだ。しかも五限目。どうせ今ごろ、クラスの連中の半分くらいは舟をいでいるに決まっている。まともな感想を提出できるのはくらいかもしれない。なにしろ伊里野は帰国子女だし──


 帰り支度をする手が止まった。


 浅羽はゆっくりと顔を上げ、教室の後ろを振り返る。


 伊里野の机がそこにある。


 そして今、教室には誰もいない。窓から斜めに射し込む日差しの斜面が教室のうす暗さを際立たせ、ゆるく吹き込む風が日なたの熱を運んでくる。


 あさの脳裏に、おんな考えが忍び込む。


 きんちよう感が胃液に混じって腹を重くする。鼓動が駆け足を始める。浅羽はゆっくりとの机に近づいていく。なに考えてるんだバカ、やめろ、そいつは絶対にまずい──頭の中でもうひとりの自分が叫んでいるが、浅羽の足は止まるどころかさらに速まった。伊里野の机に手を乗せて、だれもいるはずのない教室の中をもう一度見回した。かべの時計が目に入る。


 三分だ。


 制限時間は三分。何も出なくても三分で切り上げる。そう決めた。


 作戦開始。


 を引いて机の中をのぞく。空っぽ。フックに掛かっている真新しい通学かばんを取り上げて机の上に置く。ステッカーがられているわけでもなく、マスコットのたぐいもついていない。「かっこ悪いしじやだから」という理由で大抵の生徒が外してしまう名札入れが取っ手についたままになっているが、中のカードには名前も住所も電話番号も血液型も書かれてはいない。


 鞄のふたの留め金に指をかけた。


 もうひとりの自分が必死になって止めている。悪いことは言わないからもうやめておけ、本気でやばいぞ、ゆうべからあれだけ色々な目にあったくせに、自分がもう首までドブにつかってるんだってことがまだわからないのか、色気づいた小学生じゃあるまいし、好きな子の笛をしゃぶるのとはわけが違うんだぞ、相手は宇宙から来たエージェントなんだぞ──!!


 ──宇宙人が怖くてそのはら電波の特派員が務まるか。


 ふるえる息を吸い込む。


 留め金を外した。


 鞄を立ててふたを開けた。中をのぞき込む。右半分には真新しい教科書と色気のないせんじのノートが縦に入っており、左半分には布包みのようなものが突っ込んである。机の上に出してみるとそれは手下げ袋で、中には何か角張ったものが入っている。昼休みを過ぎた弁当箱にしては重い。


 まずは鞄の方を先に調べてしまおうと思って、ポケット状の仕切りの中を手で探った。


 パスケースが出てきた。


 開ける。


 中には、得体の知れないカードが四枚。


 うち一枚は、園原基地のゲートが発行する通行許可証のようなものらしかった。プラスチック製で、指では容易に曲げられないくらいにぶ厚くて、カードの裏には機械で読み取る磁気面がある。表には伊里野の顔写真がついており、わけのわからない数字や略号と並んで、おそらくは基地居住区内の住所と思われるものが記入されている。「氏名」のらんが空白のままになっているのはなぜだろう。


 残りの三枚はすべて同じものに見えた。テレホンカードによく似ている。角が丸くて手触りもふにゃふにゃで、右端が小さく丸く欠けているところまでそっくりだった。自分の財布からテレホンカードを取り出して重ねてみると、大きさも形もぴったり合う。見れば見るほど、これはまさにテレホンカードなのではないかという気がしてくる。が、文字や柄がまったく印刷されていない。裏も表もグレー一色で、度数を示す数字もバーコードも、曲げるな汚すな磁気に近づけるなという注意書きもない。ただ一点だけ、小さな三角形の矢印のようなものが印刷されていて、そっちが表でその方向に挿し込んで使うものらしい、ということがかろうじてわかる。しかし、挿し込むその先は、果たして本当に公衆電話なのか。


 あさは、頭の中でやめろと絶叫する自分の声を無視して、テレホンカードのように見える三枚のうち一枚をズボンのポケットに突っ込んだ。


 かべの時計を見上げる、もう二分が過ぎている。


 焦る。


 カードをパスケースに戻してかばんのポケットに投げ込む。これを調べれば終わりだと自分に言い聞かせて、手下げ袋に手をかけた。生理用品でも出てきたらどうしようと内心恐れおののきつつ、ひと思いに中身をあける。


 プラスチック製の薬の小びん三本と、携帯用のゲーム機と、ソフトウエアのROMパック三つが出てきた。


 薬の瓶を見た途端、やっぱり昨夜のプールでの出来事は夢ではなかったのだ、という奇妙な安堵を覚えた。小瓶のフタを開けて中身を手のひらにこぼしてみる。糖衣錠ではなく圧縮成形の錠剤。色は白っぽくて、文字や番号の刻印はない。瓶の中身は三本ともに同じもののように見えたが、浅羽はそれぞれの瓶から三粒ずつ取り出して、それぞれをティッシュにくるんでポケットに入れた。頭の中の声があきれ声でつぶやく。もうダメだね。お前絶対消されるね。


 そして、最後のブツである携帯用のゲーム機を手に取った。


 よく見かける、ごく普通のゲーム機だった。アナログの方向キーとボタンが四つ、その上にカラー液晶のメイン画面があって、その周囲をレーザー表示用のポートが囲んでいる。この機種には値段によって三種類のタイプがあって、三種類のそれぞれに何だか口にするのも恥ずかしいほど大げさな名前がついている。のこれは、三つのサブ画面をレーザーで空中表示できる、俗に「一番高いやつ」と呼ばれているタイプだ。


 ゲーム機を裏返してみると、ソフトウエアを挿し込むスリットにはすでにROMパックが入っている。メーカーのマークもなく、色とりどりのラベルもられてはおらず、その代わりに黒いマジックでアルファベットと数字が殴り書きされている。


 こう読めた。


『BARCAP─S03』


 海賊ROMなのかもしれない、と思った。


 ほかの三つのROMパックもやはり、


『DCA─S08』


『DCA─S14』


『BARCAP─S06』


 もうとっくに三分は過ぎている。いい加減にしろ、早くしまえ、何もかもぜんぶ元どおりにしてトンズラしろ、頭の中では相変わらずそんな声が聞こえる。それでも、あさはゲーム機を手に立ち尽くしている。


 は、どんなゲームが好きなのだろう。


 なぞのカードや大量の薬はだれかが伊里野に与えた物なのだろうが、このゲーム機とソフトウエアはきっと、伊里野自身が持つことを選んだ物だと思う。「持たされている」のとは違う。その選択はほかの誰でもない、伊里野の中から出てきたものだ。


 カードや薬を調べるよりも、このゲームやってみることの方が、伊里野により近づけるような気がした。


 浅羽は、ゲーム機の電源ボタンに指を乗せ、


 押


「なにしてるの」


 そのしゆんかん、頭の中にいたもうひとりの自分が、脳天キヤノピーを吹き飛ばして射出座席で脱出した。


 死ぬかと思った。悲鳴だって上げた。これで地球もおしまいだと思った。せきずい反射で背後を振り返り、足がだらしなくもつれ、指が勝手にゲーム機を取り落とす。


 そのゲーム機を、手首をリストバンドで隠した右手が空中で見事につかみ取った。


 表情も変えず、まばたきひとつせず、ゲーム機の方を見てもいない。


 英語の教科書と色気のないせんじのノートをわきに抱え、身動きもできない浅羽に無表情な視線を据えて、伊里野はもう一度尋ねた。


「なにしてるの」

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