第三種接近遭遇 8/9

「ちょっと」


 それだけ言って、晶穂は浅羽を自分の机の方へ引っぱっていった。このクラスではどう晶穂はとう派として知られているので、花村もさすがに大っぴらにひやかすようなはしない。


「なんで今日遅刻したのよ」


「してないよ。ぎりぎりセーフだ」


かわぐちと一緒に教室入ってくるなんて遅刻と一緒よ。あれじゃいいじきじゃない」


 そう言って、晶穂は自分のかばんの中からクリップで留めた紙の束を引っぱり出して浅羽に押しつけた。


「なにこれ」


「ちょ、ここで見なくてもいいでしょ? 早くどっかにしまいなさいよ」


 おどろいた。


 夏休みの宿題のゼロックスコピーだった。


 あさは実に情けない笑みを浮かべ、


「──高くつきそうだな、これ」


「当然でしょ。わかってるとおもうけど、答え丸写しするようなしないでね」


「あの、」


 礼を言おうとしたしゆんかんに「早くしまいなさいったら!」と小声で怒られて、浅羽は慌ててコピーの束をえりもとからシャツの中に突っ込んだ。そこにしまうか、とあきあきれる。


「──そうだ」


 そのとき、浅羽は大事なことを思い出した。


 晶穂に聞かなければならないことがあったのだ。


「なに」


「あのさ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」


「だからなによ」


「ちょっと変なこと聞くけどさ、うちの学校の女子のスクール水着って、」


 晶穂のまゆがたちまちくもる。覚悟を決めて浅羽は先を続ける。


「こう、肩ひもっていうのかな、このへんのふちに白い線が入ってるやつだよね?」


「やけに詳しいじゃない。なんで知ってるのよそんなこと」


 晶穂は浅羽の顔をじっとにらんで、


「あんたまさか、プールの授業のぞいたりしてたんじゃ──」


「違うって。市営プール行けば学校の水着で泳いでる子なんかいくらでもいるだろ?」


 晶穂はうたぐり深い目つきで浅羽をにらんでいたが、一応は納得したのか、


「で?」


「それと名札がついてるよね、胸と背中に。はんそでの体育着についてるみたいな。あの名札はさ、簡単に取り外したりできる?」


「どういうこと?」


「だからつまり、マジックテープとかホックとかで留めてあるだけで、外そうと思えばすぐに外せるのか、それともいつけてあるのか、ってことなんだけど」


 晶穂は少し考えて、


「普通は、縫いつけてあると思うけど。あんなの外せたってしょうがないし。なんでそんなこと聞くの?」


 意味のある結論は、何ひとつみちびき出せなかった。


 あの女の子は自分と同じくらいのとしに見えた。着ていたスクール水着もどうやらこの学校指定のものらしい。が、スクール水着なんて実はどこの学校でも似たようなデザインなのかもしれない。名札のあるなしにしても、例えば何かの理由で新調したばかりのスクール水着だからゆうべはたまたまついていなかっただけ、ということもあり得る。


 はっきりしたことは何も言えない。


「──ありがとう」


 そのとき、時計塔のかねが鳴った。二限目が始まる。


「──ありがとう」


 宿題のコピーに対してではなく、質問に答えてくれたことに礼を言って、あさは考え込みながら自分の席に戻った。西にしはさすがに横目でちらりと様子をうかがってくるだけだったが、はなむらは「おい、なに話してたんだよ」としつこい。しかし、浅羽にはその言葉は半分も聞こえておらず、花村もじきにあきらめてしまった。周囲のだれもが休み時間に未練たっぷりな感じで席につき始める。


 机の一点を見つめてひとり、浅羽は思う。


 あの女の子は、一体、だれだったのか。


 ──君がまず先に出てくれ。外にいる連中は、何も危害は加えない。


 プールに現れたなぞの男は、そう言った。


 そして自分は、その言葉に従った。


 あのときの異常な雰囲気とか不安とか恐怖とか、今はまだそういうものが頭の中に残っているからいい。しかし、そんなものは時間とともにうすれてしまう。なぜあのとき、言いたいことを言ってやらなかったのか──自分はすぐに、そういう後悔にさいなまれるようになるはずだ。


 だが、それはひとまずさて置く。


 自分は、あの女の子を男と一緒にプールサイドに残して、更衣室から外に出たのだ。


 それが事実だ。


 外には白い大型のバンが止まっており、黒服の男たちがいた。バンは五台や六台はあったように思うし、黒服の男たちも十人や二十人はいたような気がする。そのうちのひとりが近寄ってきて、もしよければ家の近くまで車で送る、と言った。丁寧な言葉づかいだった。何も説明できないことについては申し訳なく思うが、自分たちとしてはあなたにできるだけ早くこの場から立ち去ってもらいたい、そのためには車で送らせてもらえれば都合がいいのだ、と。


 自分は、黒服のその言葉にも従った。


 ビデオ屋に自転車を止めてあることなど、あのときは忘れていた。


 促されるままに近くに止まっていたバンの一台に乗り込んだ。バッグを抱えて、くつを手に持って、びしょれの短パンひとつで。車が走り出してから、バッグの中からTシャツを出して着たことはおぼえている。


 そこでいきなりおくが途切れている。


 一体何が起こったのか、まったくわからない。


 気がついたら、家のすぐ近くのバス停のベンチにひとりで座っていた。ちゃんと服も着ていたし、ビデオ屋に止めておいたはずの自転車がすぐそばにあって、ベンチの足にチェーンロックでつないであった。バス停の時計は、夜中の二時十分を指していた。


 今でこそ冷静に思い出すこともできるが、あのときには怖すぎて涙が出た。


 思い知った。冗談ごとではなかった。おくの喪失というのは、テレビやマンガに出てくるような長閑のどかなものでもなければロマンチックなものでもなかった。わずか数時間の空白がこれほど恐ろしいものだとは思ってもみなかった。その間に自分が何をしたのかわからないし、自分がしたことに対してまるで責任を持てない。自分が何をされたのかもわからないし、自分がされたことに対してまったく責任を問えない。


 怖すぎて、チェーンロックのかいじよう番号をすぐには思い出せなかった。


 死にもの狂いでペダルを踏んで家に逃げ帰った。


 本当に、笑っていられない恐ろしさだった。

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