第三種接近遭遇 3/9

 おどろきのあまり死ぬかと思う。女の子が血を吐いている。口元を押さえている手の指の間から、血がしたたり落ちている。


「!!、あ、わ、うわ!、あの、」


 みっともないくらいに慌てふためく浅羽を上目づかいに見つめ、女の子は、やっと聞き取れるくらいの声で、


「はなぢ」


 そう言って、片手で水をすくい、鼻から口元へと伝い落ちていく血をぬぐう。血を吐いているのかと思ったのは浅羽の勘違いで、よく見れば本当に鼻血だった。


 しかし、浅羽にとってはどっちでも同じようなものである。


 とにかく、自分が何とかしなくてはならない。


 そのことに変わりはなかった。


 浅羽はロケットのような勢いでプールから上がり、プールサイドに置かれている女の子のバッグに駆け寄った。脱ぎ散らかされている服の方はできるだけ見ないようにして、幅が親指ほどもあるごついジッパーに手をかけた。頭の中の慌てふためいている部分は「タオルぐらいは入っているだろう」と考えており、わずかに残っていた冷静な部分が「女の子っぽくないバッグだな」と考えていた。色は暗い緑で、固い手ざわりの頑丈な素材でできていて、でっかいポケットがいっぱいついている。そのはら基地の兵隊が持ち歩いているバッグに似ていた。ジッパーを一気に引き開け、一番上に入っていたバスタオルを引っぱり出して、そのすぐ下に入っていた物を目にして思わず息をんだ。


 錠剤が一杯に詰まった、ジュースの缶ほどの大きさの、プラスチック製のびんが三本。


 見てはいけない物を見てしまった。


 そう思った。


 浅羽はあたふたとジッパーを閉めてしまった。なにしろ慌てていたし、大量の薬が詰まった瓶のインパクトに目を奪われていたし、それ以上はろくに見もしなかった。だから、薬の瓶のすぐとなりに、口径が9ミリで装弾数は十六発の「もっと見てはいけない物」のグリップが突き出ていたことに、浅羽はついに気づかなかった。


 バスタオルを手に、できるだけさりげない表情を顔に、浅羽は大急ぎでプールに駆け戻った。女の子はようやくプールから上がろうとしているところで、それはまるで鉄棒に足をかけてよじ登ろうとしているようなスキだらけの格好で、浅羽はじろじろ見てはいけないという一心から不自然なくらいにそっぽを向き、


「これ」


 バスタオルを差し出した。


 しばらくしてからあさが視線を戻すと、女の子の上目づかいの視線にぶつかった。両足を水に入れたままプールのふちに座って、肩にかけたバスタオルの両端で鼻を押さえている。鼻血はもう収まりかけているようだったが、バスタオルを染める赤にどきりとする。


 どうしよう、と思う。


 現実から足を一歩だけ踏み外しているような感覚がいまだに続いている。正直なところ、なんだか気味が悪い、とも少しだけ思う。「じゃあぼくは帰るから」と告げて、とっととこの場から立ち去りたいという気持ちは、心の中で決して小さくはない。


 だけど──


 女の子がじっと浅羽を見つめている。浅羽は再びそっぽを向く。


 このままここに残していったら、この子はいつまでもこうしてプールの縁に座っているのではないか、という気がする。


「見た?」


 いきなり、女の子がそう尋ねた。


 浅羽は不意をかれて言葉に詰まった。血を見て慌てていたとはいえ、断りもなくバッグを開けてしまったのはまずかった、と浅羽は思う。それに、こうもはっきりと聞かれてまだとぼけるのも、なんだかズルいような、男らしくないような。

 近からず遠からずの距離を目で測って、浅羽は女の子と同じようにプールの縁に座った。


「──病気なの?」


 女の子はほんのいつしゆんだけ、ほんのわずかにげんそうな顔をして、すぐに首を振った。その後に何か説明があるのだろうと思って浅羽は続く言葉を待ったが、女の子はそれっきりだまっている。浅羽はちんもくに耐えきれなくなり、何か言わなければと思って、


「名前は?」


 女の子が答える。


「いりや」


 何を言っても外国語のようにひびく、少し不器用な感じの、不思議な声だった。


「──それ、名前? みよう?」


 ひと呼吸おいて、女の子はこう答えた。


「いりや、かな」


』かもしれない、と思った。そういう地名がそのはら市の中にあるから。


 女の子は浅羽の次の言葉をじっと待っている。


 何か言わなければ、と浅羽は思う。


「──泳げないの?」


 言ってしまってから、もうちょっと実のあることを聞けないのかバカめ、と自分でも思う。泳げないに決まっている、さっきおぼれているところを助けたばかりではないか。


 目を合わせないようにしているあさの視界の中で、女の子がこくっとうなずいた。


 何か言わなければ、と浅羽は思う。


 思うのだが、切れ端のような言葉でしかしやべらない女の子に引きずられているのか、頭の中で渦巻く疑問をちゃんと意味の通る「質問」にすることができない。疑問を生のままで口にすれば「君はだれ?」というひと言だけになってしまう。この女の子がそれに明快な答えを返してくれるとは思えない。ちんもくは続き、きんちようはいや増し、何か言わなければと焦れば焦るほど、「じゃあぼくは帰るから」以外には何の言葉も思い浮かばない。


「およげる?」


 いきなり、女の子がそう尋ねた。


 あなたは泳げるのか、と質問しているのだ。そのことを理解するまでに少しかかった。


 そして、そのひと言が突破口になった。


「──あのさ、もしよかったら、」


 この子は泳げない。そして、得意中の得意というわけでもないけれど、自分は泳げる。


 その点において自分は、多少なりともいいところを見せられる。


「教えてあげるよ、泳ぎかた」


 浅羽はそう言った。


 言ってしまってから、自分の提案に自分でためらいを覚える。この女の子はさっき鼻血を出した。バッグには得体の知れない薬がどっさり入っていた。本人がどう思っているのかはわからないが、そもそもこの子がプールで泳ぐなどという事自体が無理な話なのではないか。


 ところが、女の子はこくっとうなずいて、ほんの少しだけうれしそうな顔をした。


 その顔を見ただけで、浅羽はあっけなく勢いづいた。


「ちょっと待ってて」


 ビート板を取ってこようと思って、小走りに用具置き場へとむかう。気配を感じてふと振り返ると、待っていろと言ったのに、女の子は小犬のように浅羽の後をついてきていた。ビート板の山をひっくり返して、できるだけきれいでぬるぬるしていないやつを探している間もずっと、女の子の視線に背中がむずむずしていた。


 思う。


 ひょっとすると、この子は泳げないというよりも、生まれてから今日まで一度も泳いだことがなかったのかもしれない。


 それでも、どうしても泳いでみたくて、一大決心をしてやって来たのかもしれない。


 きっとそうだ、と浅羽は根拠もなく思う。


 病気なのかと浅羽は尋ね、女の子は首を振った。しかし、いわゆる病気ではないにせよ、あれだけの薬を持ち歩いているのはやはり普通ではないのだろう。


 例えば、生まれつき身体からだが弱い、とか。


 長いこと患っていた大きな病気が最近やっと治ったばかり、とか。


 きっとそうだ、とあさは思った。この子はずっと昔から病院を出たり入ったりの生活をしていて、学校も休みがちで、それこそ体育の授業なんかはずっと見学で、プールの授業では泳いでいる友達の姿をただ見ているだけで、それでも泳ぐということにすごくあこがれていて、最近になってやっと身体の具合がよくなってきたのでお母さんに「プールに行ってもいい?」と尋ねてみても「なにバカなこと言ってるのこの子はだめに決まってるでしょあらこんな時間もう薬は飲んだの?」かなんか言われて、それでもあきらめきれなくて、こっそり家を抜け出して夜のプールにやって来たのだ絶対そうだ、と浅羽は思った。


 そう考えれば、何となく線が細い感じがすることも、プールを見つめていたときの思いつめたような雰囲気も、くそに水泳帽をかぶっていることも、いきなりの鼻血も大量の薬も、ぜんぶ説明がつくような気がした。


 ビート板を二枚手に取ってプールに戻り、ざぶんと足から飛び込んだ。女の子はプールのふちで少しためらって、浅羽と同じように足から飛び込む。まるで、浅羽のやることを何から何までそっくりそのまましようとしているかのように見える。


 ビート板を女の子に手渡して、


「これにつかまってればおぼれたりしないから」


 そこでふと気になって、


「──あのさ、水に顔つけられる?」


 女の子は、恐々と首を振る。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます