6 『馬券勝負その後とサトミの黒歴史』
広い板張りの道場の中。
わたしは白の道着に黒帯を締めて、足の裏を合わせるようにして胡座をかき、目を瞑っていた。
道場にいるのはわたしだけ。床板はひんやりとしていて、空気はしんとして静まり返っている。
埼玉県川越市の片隅にあるうらぶれた古武術道場、それがわたしの実家である。父が師範をつとめるこの道場だが、わたしも小学生のころからその門下生のひとりだった。小さな頃から朝な夕なに雑巾がけをし、一人でも飽きずに型の稽古に勤しんできたこの道場は、今でもわたしにとってもっとも落ち着く場所なのだ。
ふう、と大きく息をつく。高校に入ってからは色々なことがありすぎた。わたしは数日前の皐月賞と、その後のあれこれについて思い出していた。
皐月賞の翌日。学校の昇降口にはちょっとした人だかりができていた。
何だろうと後ろの方から覗き込むと、皆掲示板を見ながら口々に話合っているらしい。わたしは背伸びして掲示物の見出しを見るに
「げっ」
と思わず声を漏らした。
これは失敗だった。それでわたしの存在に気づいた人だかりが、ばっと一斉にわたしに振り向いたからである。
掲示板に貼ってあったのは、今朝早くに刷られたばかりの『おうまさん速報』なる掲示新聞である。その見出しに踊るのは『348440pt - 0pt』の文字。無類の競馬好きかつ、馬券勝負至上主義なこの高校の生徒たちにとって、それは口にせずにはいられないネタであり、わたしはそこに投げ込まれたエサであった。
登校間もないわたしがそこでどういう目に遭ったかは、まあご想像の通りだろう。
もみくちゃにされ、ほうほうのていで自分の教室に辿り着いたわたしを待ち構えていたのは、やはりクラス一同の大歓迎状態であった。
「羽崎さん、やっぱりすごい才能があったんだね!」
「初心者なのにあんなにポイントを稼ぐなんて、さすが馬券師部だよ!」
「アルアインで大勝負とは、やっぱり目のつけどころが違う!」
「ふっ、俺には最初から分かっていたさ、お前はただものじゃないってな!」
口々に浴びせられる賞賛の声に、引きながらもかろうじて笑顔で返す。
もちろんこれは悪いことではなかった。わたしとしてもクラスには溶け込みたかったのだし、なによりみんなわたしが初心者だと分かったうえで、褒めてくれているのだ。“スカウトされたすげー馬券師”だと勘違いされてもみくちゃにされた初日よりはずっといい。
それにわたし自身実際に競馬場に行ってみて、おうまさん達が走るのをそれなりに楽しんだし、「馬券も買わずに予想して観戦して何が楽しいの?」という偏見はなくなった。皆が競馬を好きな気持ちも、まあ十分の一ぐらいは分かるので、昨日の競馬の話なんかをされてもそれほど苦痛を感じずに聞いていることができる。
……だけれども、こうして手放しで賞賛されるとちょっと心が痛むのは、ズルをしたような感覚に苛まれるからだ。
そう、昨日の勝利は、自分の力ではなかった。
ななこ先輩から言付けられた双眼鏡。
それは、勝つ馬が光をまとって見えるという、競馬場にたくさんいた人生十回ぐらい詰んでそうなおっさん達垂涎の不思議アイテムであった。
今でも信じられない気持ちはある。なにしろ、はっきりと使ったのは皐月賞の、あの一回きりである。第十二レースでも確認してみようかとは思ったのだが、とんでもないものを渡されてしまったのでは、と怖くなって、結局使わなかったのだ。
でもその一回で見たものは決して見間違いとか気のせいとかではなかった。大きな馬場の、直線を埋め尽くすように広がっていった輝き。それと共にゴール板を駆け抜けた、力強い鹿毛の馬。あの美しい光景は今でも心に焼き付いている。
そしてそれが心に焼き付いているからこそ、怖いのだ。
その日の昼休み、めぐさんの『アンニュイ・ホーシング』は案の定わたしと田之倉くんの勝負の特集らしかった。わたしはクラスメイトに捕まる前に鞄を持って教室を後にし、鞄ごしに中に入れた双眼鏡の感覚をそっと確かめる。
これはわたしには過ぎたる力だ。一刻も早くななこ先輩に返そうと、わたしは部室に向かった。
がらりと馬券師部の部室に入ると、やはり安楽椅子の上にぴょこんと生えているアホ毛があった。昼休みだろうが放課後だろうが基本いつ来ても居るので、ますます人間なのかどうか疑わしいが、それはさておき。
アホ毛は左右にぴょこ、ぴょこ、と跳ねるように揺れている。何かを言いたいのかもしれないが、わたしにアホ毛話の技能はない。
「……今日は副部長いないんで、普通に口で喋って下さいね?」
わたしの言葉に先輩は、ぴょこん、とアホ毛で返事をする。……ホントに分かってるのかな?
さておき、わたしは鞄から双眼鏡を取り出す。
「あの、これ……副部長に言付けて頂いた双眼鏡ですけど、ありがとうございました」
「よく見えた?」
久しぶりに聞くななこ先輩の声。安楽椅子の向こうで喋っているとは思えないほど、よく響く声だ。
「はい、よく見えました……おかげで、勝てました」
「?」
先輩は首を、じゃなくてアホ毛を傾げる。
「気に入ったなら、あげようか?」
「い、いえいえいえいえ! わ、わたしには過ぎたる力ですからマジで! これはお返しします!」
「?」
……という感じで、わたしは双眼鏡を机に置いて、逃げるように部室を後にしたのだった。あげようか、という提案には心が動かないこともなかったが、実際あれは過ぎたる力だ。昔話でも何でも、ああいうアイテムに頼った人間は最後には不幸になると相場が決まっている。
戻って現在、実家の道場内である。わたしは回想を終えて立ち上がると、体をほぐすついでに、基本の型を繰り出していく。裸足で板間を踏みしめる感覚が心地よい。
しばらくそうやって体を動かしていると、ぱたぱたと足音が聞こえ、すぱーんと障子戸が開け放たれた。
「あれ、
「……イチ、静かに開けろっていつも言われてんだろ。
「あ、いっけね」
頭をかきながら今更ゆっくりと戸を閉める少年は
わたしと同い年だが、中学生の頃からこのスタイルだった。つまりまあ、ありていに言えば不良というヤツである。
「姐さん何日かぶりっすね。高校忙しいんっすか?」
「ん、まーね」
イチは格好に似合わない人懐こい笑みを浮かべながら道場の隅に荷物を投げるように置くと、わたしがいるのにも構わずぽいぽいと服を脱いで道着に着替えにかかる。これはいつもの事なので、わたしも「キャー」なんて言って目をそらすような可愛らしさは持ち合わせていない。
「つーか、その『姐さん』ってのやめない? ほら、わたしもジョシコーセーになったわけだしさ」
「姐さんジョシコーセーっすか、似合わないっすね」
と、イチはゲラゲラ笑う。女子高生が似合わないって何だ。女子のほとんどは人生のある一点において女子高生になるんだぞ。
「なんつーか、姐さんが一番呼びやすいんすよね。名字で羽崎っつーと羽崎センセーとかぶってなんかおっかないじゃないっすか」
羽崎センセーというのはこの道場の師範、羽崎理一郎のこと、つまりわたしの父親だ。道場師範というイメージ通りのいかつい親父で、慕われつつも恐れられている。娘のわたしから見ても確かにちょっとおっかないオッサンである。
「別に下の名前でもいーだろ」
「えー、いや……下の名前呼びとか、ちょっと恥ずかしいじゃないっすか」
イチはそう言ってぽっと頬を赤らめる。何でお前がそんな乙女みたいなリアクションを取るんだ。
「だからやっぱ、姐さんは姐さんっすよ」
「しゃーねーな。ま、今更か」
わたしはため息をつく。
このイチという男、もちろんわたしの弟でも何でもない、赤の他人だ。それが何故わたしのことを姐さんと呼ぶのか、そしてなぜ同い年なのに敬語を使われているのか。
あとついでに、この男と喋る時だけなぜわたしの言葉遣いがこんなに荒っぽいのか(普段から十分荒っぽいじゃん、という突っ込みはこの際認めないこととする)というと、それはわたしの黒歴史となった中学生時代に関係している。
まあ、もったいぶって言うほどの大した話ではない。ここにいる男、イチは馬鹿なのだ。
馬鹿なので、中学時代のイチは同種の馬鹿といつもつるんで、馬鹿なことをやっていた。授業中にも関わらず廊下でギターをかき鳴らしたり、校舎内をチャリで爆走したり、廊下で野球をやって窓ガラスを割ったりしていた。まあ、どこにでもいるハタ迷惑で馬鹿な中学生だ。
そしてわたしもまた、馬鹿な中学生だった。わたしは小学校の頃からの道場稽古でそこそこ腕っ節に自信をつけた馬鹿で、かつ中一の頃といったら女子の方が発育が早く、男女間の差が縮まる時期でもある。かくして
「お前ら廊下でだるまさんが転んだやってんじゃねえよ邪魔だろ」
「ああ? てめーだるまさんが転んだ馬鹿にする気か? そんならもう死ね!」
という流れは必然であり、馬鹿なので衝突したときに取れる解決策が殴り合いしかなかった、というのもまた必然なのであった。その時の喧嘩でどちらが勝ったかは当事者(主にわたし)の名誉のために伏せるが、イチが未だにわたしに敬語を使っているのはまあ、そういうことである。
そんなわけで殴り合いから始まった不良どもとの関係だったが、お互い馬鹿だったので馬鹿同士すぐに仲良くなった。それからつるんで暴れまわった挙句隣町の中学校に殴り込みなんていう馬鹿な展開になったりもして、『鮮血のサトミ』なんてありがたくない二つ名を頂戴したりしたのもこの時期のことだが、それはまた別の話である。
まあその後は父親から大目玉を食らったわたし経由で不良どもも道場の門下生となり、仲良く師範に性根を叩き直されることになったわけだ。そんなこんなな縁で、中学時代つるんでいた連中のほとんどは未だにうちの門下生である。
「イチはどうよ、高校は」
そーゆーわけでわたしも昔の仲間と話すときは女の子らしからぬぞんざいな口調になってしまいがちなのだ。父さんによく怒られることではあるが、いきなり女の子らしい喋り方に直そうものなら笑われてしまいそうで、なかなか難しいわけである。
「きびーっすね」
これは『厳しいですね』という意味だ。
「毎日セーカツ指導に髪の色戻せって追っかけられてますよ」
「当たり前だろ。染めろよ」
「やー、俺背ぇ低いっすからね。黒だとハッタリ効かねえじゃねぇっすか」
「効かさなくていーんだよ」
とわたしは言ったが、遠くの高校に逃げたわたしと違って、地元で進学したイチは『札付きのワル』という評判と向き合って行かなければならないわけで、それなりの気苦労もあるのだろう。馬鹿は馬鹿なりに、黒歴史としっかり向き合って生きていくほかないのだ。
「お互いコーコーセーになったんだし、ちったあ成長しないとな……」
わたしはしでかした過去に思いを馳せながら、そんなことをつぶやいた。
と、何を思ったかイチは目線をあたしの顔から少し下にずらすと、真顔でこう言った。
「……大丈夫っすよ! お互いまだ成長期っすから、大きくなりますって!」
「……オイ、今どこ見て言った」
「や、別に姐さんの無乳の話じゃないっすよ?」
「無乳言うな!」
せめて貧乳と言ってほしい。あたしが襟首を掴まえようとすると、イチもすばしっこくひらりとかわす。そのまま道場内でどたどたと追いかけっこになる。
この頃になると他の門下生も続々集まってきていたが、昔からの門下生(主に元不良グループ)は『またか……』という生暖かい目で、それ以外の人からは引き気味に見られていた。まあもうこの道場内では今以上評判が下がりようもないので、わたしは無敵である。
そうやってしばらくどたばたやっていたが、師範が入ってきたので二人ともぴたりと動きを止めた。
師範は無言のまま、板間の中央にずしりと正座をして目を瞑る。準備ができた者から師範と向かい合うように座っていって、全員が位置についたら稽古開始だ。まだ準備のできていない門下生が、隅で慌ただしく着替え始める。
わたしとイチは何事もなかったかのようにぴたっと右端に正座し、ひそひそと言葉を交わす。
「なんか今日少なくない? これで全員?」
「ああ、姐さんみたいに、高校で部活初めて来にくくなった奴もいるんすけど」
イチは今来ている門下生たちの顔を見て、やっぱりという風にかぶりを振った。
「なんかサクラダとかウッシーは、バスケット・ケースとかいう名前のチームみたいのに入ったらしくって」
「バスケット……? 何それ。ピクニックサークルか何か?」
「どっちかっつーとチーマーとか、そういう奴らしいっすよ」
イチは心配そうに眉をひそめる。
「上でヤクザに繋がってるとかなんとか、あんまいい噂きかないんスよね」
「そっかー」
先程性根を叩き直された、と言ったが、性根というのは道場に入ったぐらいでそう簡単に叩き直せるものでもないわけで。やっぱり暴れたい奴は暴れたいのである。
「ま、本人が望んで入ったならしゃーないな。戻ってきてくれるといーんだけどね」
「そーっスね……」
そんな事を話していたところで、おしゃべりが過ぎたのか師範が薄目をあけてこちらをギロリと睨んできた。わたしたちはあわてて口をつぐみ、背筋を伸ばす。
にしても、チーマーかあ。不良といっても、中学校という狭い世界で暴れてたわたしにはあまりピンと来ない人たちではあるが、少なくとも慈善活動をする集団ではないだろう。
サクラダもウッシーも、短慮だけど気はいい奴らだった。取り返しのつかないようなことだけは、しないでくれるといいな。
「「「よろしくお願いします」」」
全員の準備が整い、挨拶をして稽古が始まる。
わたしは、先程のイチとの話になんとなくキナ臭いものを感じつつ。
それはそれとして無乳呼ばわりしたあいつは組手でボコろう、と思いながら、基本の型を繰り返すのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます