エピローグ

アヤカシ喰い依子さんのその後

 宮本沙也香は至って普通の小学校教諭だった。

 容姿に取り立てた特徴はなく、素行にも問題はない。難点があるとすれば気弱なところだろうか。親やPTAの要望に振り回され、面倒な事務作業を断り切れず、夜遅くまで働いて疲弊する日々を過ごしていた。

 だから彼女は休日に、唯一の趣味である登山に出かけていた。山頂まで登って壮大な景色を眺めると、嫌なことをぱーっと忘れられるからだ。

 沙也香は大体一人で登山に出かけている。こんなときくらい女友達に気を遣いたくなかった。理解ある彼氏でもいれば誘うのだが、あいにくと出会いには縁がない。


 しかし、出会いは唐突に訪れる。

 登山道を登っていた彼女はある男に話しかけられた。彼も登山が趣味で、ご一緒しませんかと爽やかな笑顔で提案された。

 まさか話しかけられると思っていなかった沙也香はかなり動揺したが、優しそうな風貌と婚期を逃しそうな焦りもあって、警戒心はみるみるうちに萎んでいった。

 だから彼女は、「こっちに綺麗な風景を撮れる穴場があるんですよ」という男の台詞にほいほいと従ってしまった。日中だったし、まさか襲われることはないだろうと高をくくっていた。

 完全な間違いだった。


 登山ルートを離れた人気のない山中で、沙也香は尻餅をつき、がたがたと震えていた。歯の根が合わず、涙で滲んだ視界に男の下卑た笑みが映る。

 いや、果たしてそれは男と呼んでいいのだろうか。

 内側から服を破るほど隆起した筋肉は、青い肌をしている。口は真横に裂けて鋭く尖った牙が生え揃っていた。醜い鷲鼻と剥き出しになった目玉は、先程まで見ていた優男とまるで違う。

 なにより額から生えた二本の角が、その存在を異形の化け物だと示していた。


「い、いや……」


 後ずさろうにも腰が抜けて立てない。そんな沙也香を男は、いや青い鬼は嬲るように眺める。ご馳走を前にした野獣のように涎を垂らし、一歩ずつ沙也香に近づいた。

 おもむろに鬼が腕を振り上げる。過呼吸になった沙也香の視界が揺らぐ。

 彼女は絶望の中で思った。こんな化け物に殺されて終わるくらいなら、もっと言いたいことを言えばよかった。

 だが、衝撃は一向にやってこない。

 気絶寸前で自失していた沙也香は我に返ると、目の前が暗くなっていることに気づく。

 誰かが彼女の前に立ち、陽光を遮っている。更には、鬼の鋭い鉤爪を大ぶりのナイフで受け止めていた。


「てめぇは……!?」


 鬼が野太い声で驚愕を示す。直後、沙也香の身体は浮遊感に包まれた。

 木々の枝や葉が間近に見える。彼女はあり得ないほどの高さに上がっていた。


「ひぃ……!」


 小さな悲鳴をこぼすと急に落下が始まる。目を瞑って衝突の痛みに備えたが、やはりここでも何も感じない。むしろ着地の衝撃を和らげてくれた感触もあった。

 目を開けた沙也香は、自分が何者かの腕に抱えられていることを把握した。恐る恐る乱入者に視線を向けた沙也香は、ハッと息を呑む。

 そばにいたのは黒髪黒瞳の美女だった。二十代前半ほどの見た目で、レザーパンツにジャケットを羽織っている。艷やかな黒髪は腰まで届いていた。大きな目と長い睫毛、整った鼻筋に柔らかそうな唇が小顔の中で均整に揃っている。

 鬼を見据える眼差しには感情の起伏がなく、氷のような冷たさを纏っていた。それが美貌と合わさり、女の沙也香でも目を奪われるほどの厳麗さを醸し出している。


「あなたは近づかないように」


 落ち着き払った声は美女のものだった。聞き返そうとした沙也香は、おもむろに放り投げられる。

「いたっ」尻を強かに打ち付けた沙也香はすぐに顔を上げる。しかし美女の姿はもうそこにはない。

 黒髪の女性は悠然と鬼に接近する。鬼は咆哮しながら鋭い鉤爪を振るう。

 彼女は、超人的な動作でその攻撃を避けた。

 鬼の腕から青黒い血液が噴出する。鬼の横合いに立つ美女は持っていたナイフを振るった。付着した血を払う動作から、彼女が攻撃したのだと理解する。


 だが、鬼は低く唸るだけで慌てる様子はない。しかもぱっくりと裂けた切断面が見る見るうちに塞がっていく。おぞましい光景に沙也香は卒倒しそうになった。


「アヤカシ喰いか、女ぁ?」


 聞くや否や、鬼が美女へ襲い掛かる。彼女は華麗な動きで攻撃を回避していく。

 長い黒髪が舞うように流れ、緊迫した状況だというのに沙也香は、美しいと感じてしまった。


「ちっ、やっぱり身体が鈍い……」


 どこか不機嫌そうな声が届いたとき、美女が一際大きく跳躍した。空中で回転した彼女は沙也香の目の前に着地する。

 離れた場所にいる青鬼は目を細め、口の端を吊り上げた。


「アヤカシ喰いってのはこんなものか。ククク、取るに足らん」

「……否定はしないわ。引退した身だし、限界がある」


 嘆息した美女はナイフを持った腕をだらりと垂らす。まるで戦闘の意思を放棄したように映って、沙也香は慌てた。まさか自分は助からないのだろうか。

 しかし美女は、肩にかかった黒髪を手で払うと、不敵に笑う。


「だから、選手交代よ」


 声と共に何かが落下した。鬼と美女の間に、銀の軌跡を引いて何者かが降り立つ。

 その存在もまた人間離れした容姿をしていた。銀色の頭髪の中に二つの獣耳が鎮座している。膝裏まで届く大きな黒羽織を纏っているが、その内側から覗いているのは銀色の尻尾だった。

 飾りだろうかと沙也香は一瞬疑うが、獣耳はぴくぴく動いているし尻尾もゆっくり揺れている。機械的な動作ではなく、身体の一部として自然な感じだった。


 ––なんなのよぉこれぇ……!


 沙也香は泣き出しそうになる。

 鬼に襲われたかと思えば美女に助けられ、更に正体不明の獣人が現れた。夢なら早く覚めてほしい。許容量はとっくに限界を超えている。


「銀髪の、妖狐? まさかお前、禍津祓まがつばらい……!」


 青鬼が狼狽の声を上げる。先ほどと打って変わって警戒心を顕わにしていた。

 場の雰囲気が変わったことを感じ取った沙也香は、美女が憮然とする変化も見取った。


「へぇ、たーくんは知ってて私は知らないの。最強カップルで周知させてるのに……やっぱり私がやろうか」

「待って待って。抑えて依子さん」


 銀髪の男が振り向き、歩き出そうとしていた美女をジェスチャーで押し止める。

 困ったように笑う顔は人当たりが良さそうというか、無害そうな印象だ。獣耳が見えていなかったら恐れたりしなかったかもしれない。


「鍛えてるとはいえ、妖力変換はできないんだから。ここは俺がいくよ。そっちのことを頼みます」


 依子と呼ばれた美女は不満げながらも頷く。微笑した銀髪の男は鬼に向き直った。

 瞬間、その姿が消える。

 え、と沙也香が目を疑った時には、男は青鬼のすぐ懐に出現していた。

 鬼は即座に反応して鈎爪を振るうも、男は攻撃を回避し、掌底を鬼の顎に叩き込む。鬼は大きくのけぞり、更に叩き込まれた蹴りによって吹き飛ばされた。大木に青い巨体がぶち当たり、メキメキと音を立てて幹が折れていく。

 蹴りを放った銀髪の男は、ゆっくりと息を吐きながら楽な姿勢を取る。その横顔は先ほどまでの軟弱そうな雰囲気が削がれ、とても逞しく感じられた。

 なぜか、ドキリと心臓が鳴った。


「私の旦那にときめかないでくれますか」

「え、旦那?」


 思わず振り向いた沙也香の鼻先に、ナイフの尖端が向けられた。

 瞬きもせず彫刻のように固まった沙也香に対し、依子はニコリと笑う。


「動けるうちに下山してください。日中なので迷うこともないはず。それとここで見たこと、聞いたことは他言無用です。決して喋らないように」


 沙也香がなにも言えないでいると「わかりましたね?」依子が語尾を強める。微笑を携えているのにその目はちっとも笑っていない。

 極寒の地に放り出されたような寒気がした。この女性は、鬼なんかよりよっぽど怖い存在だ。そう直感した沙也香は一目散に逃げ出し、その場から遠ざかっていく。


 その日、宮本沙也香は山中でふらついているところを他の登山客に発見され、無事に保護された。なぜ登山ルートを外れた場所にいたのかは頑として喋ろうとせず、警察は遭難者として処理する。

 これは余談だが、その後の沙也香は人が変わったかのように物事をハッキリ喋るようになり、一部教師や生徒たちから人望を集めるようになる。


 △▼△


 再度襲いかかってきた青鬼の攻撃を避け、俺は懐に潜り込む。そして胴体に掌をピタリと押し当てる。


「――オン


 妖気の流れが乱れる。俺の掌を中心にして黒い光が渦巻く。それは相手の妖力を可視化した奔流だ。グルグルと螺旋を描く光は鬼の腹部に吸い込まれ、表皮には模様のような痣が生まれている。パッと見で、呪符の文字に似ていた。


「何しやがった!?」


 青鬼が慌てて腕を叩きつけてくる。俺は飛び退って距離を開けた。

 怒りで唸り声を上げる鬼を見据えながら、腹部の呪印を指差す。


「俺の力は知ってますよね。あなたの妖力機能を封じました。肉体再生は、もうできません」


 瞠目した鬼はすぐに腹を触るが、呪印はそんなことでは消えない。


「一度目は見逃します。でも、次は殺します」

「っ……!」

「もちろん、そんな状態で悪さをすればどうなるかはわかりますよね。俺が駆けつけなくても、人間達があなたを殺す。もし人に手を出さないと誓うなら、解いてあげますけど」


 青鬼は俺を忌々しげに睨みつけていた。全身に力を蓄え殺気を膨らませている。

 鬼は跳躍した。俺に向けて、ではなく、直ぐ側の木の枝に飛び乗る。そして木から木へと飛び移っていった。

 姿が見えなくなったところで緩やかに息を吐く。結局相容れることはなかった。

 でもこれでいい。少なくともあの青鬼は人間に見つからないようひっそり生きていくだろう。


「お疲れ、たーくん」


 振り向けば依子さんが近寄ってきていた。彼女は機嫌よく笑いかけながら、俺の腕に手を回してくる。


「さっきの人は?」

「逃したよ。そのうち保護されるはず」


 依子さんの返事に頷き、俺は森の茂みに目を向ける。


「もう出てきてもいいですよ、ローさん。もおいで」


 ガサリ、と背の低い草むらが揺れる。そこから姿を表したのは片腕を無くしたパンツスーツ姿の女性と、水色の体毛に身を包む一匹の虎。

 そして虎の背中に乗った、依子さんそっくりの小さな女の子だった。

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