何も変わっていない依子さん

「私以外の匂いがするんだけど。しかも二人分。一人は人間で、もう一人はアヤカシかな?」


 噴き出しそうになる。なんでそこまでわかるんだ!

 依子さんがナイフの尖端を向けてきた。冷や汗が溢れて一年前の恐怖が蘇る。


「こ、これには深い理由がありまして……」

「へぇ、そう。じゃあ聞かせて。ちょっとでも浮気の気配を感じたら殺すから」


 なんという無慈悲。ちょっとくらい丸くなってくれてもいいのに。

 などと悲しんでいる場合ではない。問題は、浮気認定の判断を下す依子さんの価値観だ。

 いくら仕方のない状況だったとしても、他の女性の部屋に転がり込んで世話を焼いていた事実は即浮気扱いだろう。パンツを履かせてたなんて知れたら粉微塵にされて微生物の餌にされかねない。


「どうしたの。たーくん」


 黙り込んでいると依子さんの殺気が膨れあがる。頭をフル回転させるが説得材料は浮かんでこない。今はとにかく自分の無実を主張する他なかった。


「う、浮気ではないです!」

「じゃあ説明して」

「………………えーと」

「死のっか」


 問答無用で依子さんがナイフを振るう。辛うじて回避できたが、腹と太ももの傷がズキリと痛んでよろけた。

 凄みを帯びた依子さんが大股で接近する。俺は慌てて手を振った。


「待って駄目死ぬ!」

「不都合でも?」


 大ありだぁ!

 飛び退ろうとして背中が通路の壁に当たった。俺を追い詰めた依子さんが逆手に持ったナイフを振り下ろす。

 ドン、という音が響く。依子さんの綺麗な瞳がすぐ近くにあった。

 振り下ろされたナイフは首から数ミリ離れた壁に突き刺さっている。ちょっとでもズレていたら頸動脈が切断されていた。


「でも、こんな姿になってまで来てくれたその想いに免じてあげなくもないわ」


 依子さんが更に近づき俺の首筋に顔を埋める。何をするのかと思えばしきりに匂いを嗅いでいた。危険な状況なのに鼻息がくすぐったくてぞわぞわする。


「百歩譲って、匂いを消してくれるなら許す」

「そ、それくらいなら」

「四百度くらいの熱湯消毒すれば消えるはず」


 依子さんその前に死んでしまいます。

 俺が顔を引き攣らせていると、依子さんは愛嬌のある笑顔を覗かせた。


「私のためならできるよね」

「いやその匂いを消す方法なら色々あると思うし熱湯にこだわらなくても……ね?」

「できるよね」


 依子さんは壁に突き刺していたナイフをそのまま傾ける。刃の根本が肩口に当たって頭がパニック。


「あのねたーくん。やむを得ぬ理由で他の女と接触することはあると思うよ? でも私と会うまで匂いが付かないように生活しておくのが彼氏の役目だよ。怠慢が見えるわ。調教教育の必要性がある」


 教育と呼んで調教と書いてあるように思えるのは気のせいだろうか。

 というか、依子さんの鼻で感知されないレベルで気をつけるのは不可能です。

 冷や汗を垂らしてどう切り抜けるか悩んでいると「あのー」という間延びた声が降りかかった。


「お取り込み中ごめんなさいね。これは何かしら? 新種の惚気かそういうプレイを見せつけられてる? っていうか今どういう状況なのかわかってるのあんた達?」


 声の主は作務衣を着た黒人男性だ。いや、果たしてそう言い切っていいのだろうか。体格も顔つきも髪型もまるきり漢らしいのに、物腰は柔らかく口調は完全に女性のそれだ。

 依子さんは呆れと困惑を混ぜた男の表情を確認すると「そういやそうだった」とナイフを下ろす。その姿に俺は軽く驚いた。あの依子さんが素直に耳を貸すなんて。

 完全に失念していたことは残当。


 とりあえず胸を撫で下ろすと、作務衣の男が依子さんの隣に並んだ。世話の焼ける妹を見るような眼差しになっている。依子さんも自然体で、口調に突っ込んでいるわけでもない。元から付き合いがあったことが伺える。

 対して俺に向けられた目は冷淡な光を携えていた。


「あなたが噂のたーくんね。はじめまして」


 俺は目礼だけして、身体に緊張を巡らせる。俺の正体も知っているわけだ。

 依子さんと一緒にいて今も戦いを仕掛けてこないところをみるに、事情があるのだろうと思う。だからといって油断する気にはならない。

 その認識を変える一言を依子さんが告げた。


「この人はボブ。私の体調や精神管理を担当してくれた専任式務官なの。牢を解放してくれたのも彼女だよ」

「えっ……?」


 思わずボブをまじまじと見つめた。つまり彼(彼女?)は依子さんを逃してくれたというのか。


「まぁ、担当患者を放っておくわけにはいかないしねぇ……他の連中は我先にシェルターに逃げて放ったらかしだったから」


 ボブは肩を竦めた。面倒だったけどね、と付け足しながら。

 そのドライさは逆に、仲の浅くない関係からくる照れ隠しにも感じた。

 ボブの態度に悪質な感情はない。この人は先ほどの男と同じように、本気で依子さんのために動いてくれた人間の一人なのだろう。

 だが、やはり俺は素直に喜べない。悪い人でなくてもボブは組織の人間だ。そちら側の考えや立場は、先程の男で十分に理解していた。


「解放したのは、シェルターまで連れて行って保護するためですか?」

「ええ、その通り。組織の命令としてはまだ彼女を生かす方向だったから」

「今もそのつもりですか」


 意識したつもりはなかったが、出した声は硬かった。

 ボブは形だけの笑みを消して俺を真正面から見据える。


「当たり、と答えたらどうするの」

「そのときは……」


 俺は拳を握りしめて目をそらす。

 依子さんを組織の元へ戻す気はない。もし抵抗されれば俺は、依子さんの目の前でボブを傷つけることになる。事前に覚悟していたはずだが、依子さんの目の前という状況にいたたまれなさを感じる。

 そんな俺とボブのやり取りに、依子さんは口出ししなかった。まるで俺を見定めるかのようにじっと見つめてくる。

 無言の数秒が経過して――ボブは人を食ったような笑みを浮かべた。そして両手を挙げる。


「悪いけどあたし、非戦闘員なの。自己犠牲とか義憤とやらで身を挺するほどこの職場に心酔してるわけじゃないし。命あっての物種だし。この子と引き替えに助かるのなら喜んでそうするわ」

「ボブ……」


 呟いたのは依子さんだ。驚きで両眉を上げている。ショックを受けたというより、予想外の発言に面食らった表情だった。


「そういうわけで、どうぞ」


 ボブがそっと依子さんの背中を押す。依子さんはゆっくりと歩き、俺の隣に立つとボブに向き直った。ただ、ボブの目線はまだ俺に注がれていた。


「でも一つだけ聞かせてちょうだい。この襲撃を計画したのはあなた?」


 ビクリと身体が揺れる。胃がぎゅっと縮まって、すぐに返事ができなかった。

 組織の人間として気にするのは当然だろう。もしかすると仲間の復讐相手が目の前にいるかもしれないのだから。

 返答次第では、先程の発言がひっくり返るかもしれない。

 俺はチラリと依子さんを見る。彼女も俺を見返して、俺の答えを待っていた。

 深呼吸して、答える。


「計画は、していません。ただ……この事態を招いたのは俺です」


 偽ることも考えたが、止めた。誤魔化してもこの人には見破られる気がした。

 それに真実を隠したところで、後々になってバレれば依子さんの不信を招くことになる。彼女と共に逃避行を始めるというときに、そういう後ろめたさや後悔を秘めておくのは足枷になるだけだと思った。

 依子さんの表情は少し柔らかくなっている。この返答が正解だったと思いたい。

 ボブはしばし黙っていた。その目元がふっと緩むと「そう」とだけ呟く。そして彼(彼女?)は腰に括り付けていた巾着袋を外すと、依子さんに向けて放り投げた。


「それじゃここでお別れね。餞別にこれあげるわ」


 怪訝そうに受け取った依子さんは、巾着袋の中を確かめて目を見開いた。


「ボブ、これって」

「持って半年分くらいかしらね」


 依子さんが巾着袋から取り出したのはアンプルと呼ばれる医療器具だった。小さな容器の中には透明な液体が満たされている。アンプルは幾つか入っているようだった。

 

「本当にいいの……?」

「それがないと困るでしょ」

「そう、だけど」

「貰っておきなさい。奔放な患者へのせめてもの診療と、友人としての気遣いよ。もうこれっきりの、ね」

 

 依子さんはじっとボブを見つめる。彼女にしては珍しいほどに感傷的な表情だった。

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