幕間 雷獣と鬼

 ビル街の一角、誰も足を踏み入れたがらない薄汚く狭い路地の奥で、棗は煙草を吹かしていた。紫煙を吐き出すと鉛色の曇り空へと登って消えていく。

 人間達はなぜこんな不味いものを好んで吸うのだろうと、煙草を吸う度に棗は不思議な気分になった。煙草の匂いも味もまったく好きになれないし、むしろ舌が鈍って不快になる。依存性のある物質もアヤカシである彼女には効果がなく、気持ちよさの欠片もない。


 ではなぜ吸っているかといえば、気分を変えるためだ。余計なことに頭を使わないよう、煙草で無理矢理に頭の中をかき混ぜていた。

 あるいは人間も、嫌なことを忘れるためにこんな苦くて臭いものを吸っているのかもしれない。自分を痛めつけて楽になろうという考えは、到底アヤカシには浮かばない発想だ。

 そんなものに頼ろうとしている自分もまたアヤカシの範疇を逸脱しているんだろうと、棗は自嘲気味に考える。

 そうしてぼんやりしていると、背後で砂利を踏む音が聞こえた。


「臭いぞ」


 いつの間に現れたのか、彼女の背後にはソフトハットを被った大柄の男が立っていた。

 男の顔は誰もが竦み上がるほどの強面で、醜い鷲鼻に大きな切り傷が入っている。ダークグレーのスーツに赤色のネクタイという出で立ちはその筋の人間を連想させた。事実、男は闇社会に潜み善良な市民を食い物にしている。

 その正体は人間でもない。異形の怪異、アヤカシだ。


「俺は酒は好きだが、西洋から入ってきたその煙草というものにはどうも慣れんな。雷獣なら尚のこと匂いを受け付けないだろうが」

「別にあたしも好きで吸ってるわけじゃねぇよ」

「なぜ吸ってるんだ」

「さてね」


 はぐらかした棗は紫煙を吐き出す。男は興味なさげに鼻を慣らした。


「相も変わらず酔狂なアヤカシだな、お前は。まだ人間の文化を玩具にしてるのか?」

「旦那こそ人間界で暮らしてるじゃん」

「俺は人間で遊んでいるだけだ。雑多なほど消失も目立たなくなる。何より酒も集まる」

「人間はともかく酒は文化でしょ」


 男は棗の指摘を無視すると、グローブほどのサイズの手を開いた。掌に握りしめていたのは、指だ。

 小柄で細い指を、男は一気に口の中に入れる。バリボリと骨の砕ける音が響く。


「契約通り、この街に集ってきたアヤカシ喰いはあらたか処理しておいた。次はお前が契約を果たす番だ」


 棗はポケットから紙切れを取り出し無造作に男へと渡す。

 内容を確かめた男は唇の端を吊り上げた。


「神域の結界を張ろうとこれでは無意味だな。座標さえわかれば侵入は容易い。自ら作り出した文明に足を引っ張られるとは愚かなものだ。お前もそう思うだろう棗」

「あたしにはどうでもいいことだよ」


 素っ気ない返事を聞いた男は手の中の紙切れをぐしゃりと握り潰した。

 次の瞬間、掌の中に炎が生まれる。その炎は紙を一瞬にして消し飛ばす。塵一つ残っていない。


「お前が人間共と馴れ合うことについてとやかく言うつもりはない。己の快楽、欲望のままに動くのがアヤカシだ。俺は俺の欲望と忠誠のためにアヤカシ喰い共を滅ぼす。お前はお前の欲望を果たすがいい」


 棗が肩を竦めると、男は「だが」と声のトーンを落とす。


「あの半妖は別だ。奴の権能は俺達の脅威になる。御しきれないのなら潰せ」

「……」

「所詮は半端な紛い物。妖狐の同類ですらない。我らの道理、摂理とかけ離れた男は人とアヤカシのどちらにも転ぶ可能性がある。腹の内に毒を仕込むことになるぞ、棗」

「……」

「情が移ったのであれば、俺が直々に――」

「いくら旦那でもあいつに手を出すのは許さない」


 棗の瞳が縦に伸びる。髪が静電気を帯びたように逆立った。彼女の身体から、剣呑な感情と共に紫電が迸る。周囲の空気が帯電してバチッと爆ぜる音が鳴った。


「アレはあたしのだ。どうするかは、あたしが決める」

「ならお前が手綱を握れ。無理なら殺せ。できなければお前の首を落とす。いいな」

「……わかってるわよ」


 棗が吐き捨てるように呟いたとき、背後の男は消えていた。舌打ちした棗は煙草を路端に捨てて足で踏みにじる。

 とても苦い気分だった。それはきっと、煙草のせいではない。自覚してしまうことが棗を更に苛立たせた。


 棗はふと鉛色の空を眺める。アヤカシの本能が雨の気配を感じ取っていた。

 古来より雷獣というアヤカシは、雨と雷の混じる空を飛び回り人間を翻弄する存在だった。今はもうそんな戯れをする雷獣は存在しない。人間は空の領域すらアヤカシから奪い、我が物顔で巨大な機械を飛行させている。

 では、アヤカシ喰い共の組織を壊滅させれば、少しはアヤカシの住みやすい世界が手に入るだろうか?


 歩き出した棗は、抱いた問いを自ら否定する。

 先ほどの男、鬼のアヤカシはそう信じて疑わないようだが、人間はしぶとい。何より数が多い。

 きっとまたアヤカシ喰いのような天敵を生み出して同じ戦いを繰り広げる。いつの時代も変わることはない。

 そんな不毛な連鎖に付き合うだけ馬鹿馬鹿しいと棗は考えていた。ほんの少し前は異例といえる価値観だったが、今では棗と同じ認識を持つアヤカシも多くなった。いっそ静かに暮らしていたいというアヤカシ達の声も届いている。


 一方で先程の鬼のように対立を煽る者もいれば、アヤカシ喰いのように膿を切除するが如く排除しに来る連中もいる。互いが互いに己の欲と宿業に縛られている。

 本当に自由なのは、その枠組みから外れている者だけだ。

 弱々しく愛想笑いする優男の顔が浮かぶ。


 ――あいつにとって、アヤカシとか人間なんていう立場は関係ないことだろうな。


 半妖の男は人とアヤカシの境界線上に立ち、どちらの存在からも拒絶されて生きてきた。

 それ故に、どちらに肩入れすることもない。固定観念に縛られることなく、真の意味で自分の意思を貫くことができる。

 そして、それを他者に押し付けられるだけの驚異的な力を有してしまった。

 本人はどこか抜けていてまったく気づいていないが、鬼が警戒するのは無理もない。だから半妖の男、太一を制御してしまうのが一番いい方法だろう。アヤカシ側に引っ張り込むことができれば全て杞憂に終わる。

 しかし太一は、今まで接してきたどの雄よりも頑固で歪んでいて強靭な精神力を有している。一筋縄でいくわけがない。


 とても面倒なのはわかりきっているのに、だから欲しくなってしまう。


 考え耽っていると、いつの間にか住処にしている雑居ビルまで辿り着いていた。錆び付いた階段を登りながら棗は思う。


 ――もしお前が人間を、依子って女を選ぶのなら……あたしはお前を。


 コンクリートの屋上を歩いて小屋の前に辿り着いた棗は、答えを言語化する前にドアを開けた。


「依子さんに妊娠してもらったら……助けられるかも」

「はぁ?」


 室内から聞こえてきた声に、棗は思わず素っ頓狂な声を上げていた。


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