楠木がショックを受けている
「棗さん。戻りました」
玄関のドアを開けてブーツを脱ぎ、棗さんのいる部屋まで向かう。すると室内からは「あり得ない、あり得ない……」という掠れ声が漏れ聞こえてきた。
姿を見せた俺と、鎖で拘束されているアヤカシ喰いの少女――楠木美希の視線が交差する。
彼女はなぜか大きく目を開いた。次に顔を真っ青にすると、俺から逃げるように視線を外す。
「嘘だ嘘だ……マジあり得ない……!」
楠木は再び呪詛のような呟きを始める。酷くショックを受けた様子だ。
家を出る前は普通だったのに、なんでこんな状態になってるんだろう。
「どうしたんです彼女……?」
「お前がその格好して出て行ってからずっとそんな感じなのよ」
人をダメにするクッションから返事がきた。棗さんは雷獣の体に戻ってクッションに寝そべっている。イタチに似た身体を丸めて尻尾を揺らしていた。
「たぶんその姿をどこかで見かけてたんじゃない? んで気づかなかった自分の間抜けさにショックを受けてるとか」
「ああ……なるほど」
言われて俺は自分の姿を見下ろす。女物のタイトなパンツとタートルネックを着込み、顔も化粧を施していた。栗色のウィッグをつけているから、ぱっと見は一応女の姿に見えるはずだ。
女装をするのはこれで二度目だった。一度目は楠木ともう一人のアヤカシ喰いに接近するために変装している。かなり近づいたので、棗さんの言う通りこの姿の俺を記憶していても不思議じゃない。
標的の変装を見抜けなかったことでプライドが傷ついている、ということか。
――つまりあれくらいならアヤカシ喰いに近づいてもバレないわけだ。
俺は今まで、初対面の段階で人間に正体を感づかれたことはなかった。ヘマをしたり長期間過ごす間に異質さを感じ取られた場合はともかく、この見た目と妖力の桁の低さで人間社会に紛れ込めたし、だからアヤカシ喰いにも見つからなかった。
依子さんにバレたのは、割と近くで会話することが多くてそのときに妖気を嗅がれていたせいだと思う。
翻って、会話できるくらい接近しない限りは感づかれないんじゃないかと俺は予測を立てていた。どうも正解だったらしい。
危ない橋を渡った甲斐があった。距離感が測れたのは今後の助けになる。変装については……気乗りしないけど。
「嘘だこんなのぉ……あり得ないんですけどぉ……」
楠木は涙声になっている。そっとしておこう。
俺はひとまず風呂場にいって着替えと洗顔を手早く済ませ、丸まって寝ている棗さんの側まで近寄った。
「怪しい連中の姿は、ありましたか」
「いんや、ないな。お前は? 近くまで見に行ったんでしょ」
「俺も……それっぽいのは見つけられなくて」
「ふーん。ならやっぱり全部燃やして処分ってのが奴らのやり方なんじゃないの」
棗さんは興味なさげに大あくびする。それから「寝る」と呟き頭をクッションに埋めてしまった。まるで気にしていない様子だ。
でも、仕方ない。この問題は棗さんには直接関係ないのだから。
俺はため息を吐いて、次に壁面に目を向ける。数多くのモニターは防犯カメラや歩行者観察カメラの撮影映像を映し出している。
その一つに、楠木が住んでいたマンションが映っていた。三階の角部屋はブルーシートに覆われ、近くに救急車や消防車が止まって隊員達が作業を進めていた。
つい昨日に忍び込んだばかりの楠木の借宿は、俺達が帰宅してすぐに起こった火災で黒焦げになった。通報が早かったおかげか死傷者は出ていないというが、出火元の楠木の部屋は原型を保てないほどボロボロになっている。
棗さんはこの原因不明の出火を、組織の隠蔽工作じゃないかと推測していた。
俺は、どうにも納得できなかった。
――こんなの絶対、危ないしな……。
アヤカシにしてみれば全て燃やすのは手っ取り早く思えるかもしれない。でも人間ならまず、近隣住民への被害を恐れるはずだ。
人間を守る組織が、人間を殺すかもしれない方法で痕跡を消すのは違和感がある。
「なにか部屋に仕掛けてたの?」
俺は振り返って楠木に問う。気分が落ち着いたのか彼女は黙り込んでいるものの、複雑そうな顔でモニターを凝視していた。返事はない。
ろくな答えが返ってくるとも思っていなかったので、俺は再びモニターに向き直る。火災が組織の仕業だとしても、痕跡が全て消えるわけじゃない。後始末に動く気がしていた。だから俺はまた、嫌な女装をしてまで現場に接近した。
結果は空振りだった。現場は警察や消防隊員に封鎖されていて、後始末に入れる余地なんてまったくない。マンション周辺に点在する防犯カメラの映像にも、怪しい動きをする人間達は映らない。
やっぱり、燃やすだけ燃やして終わらせたのだろうか。
――式務を捕らえる計画だったのに、これじゃあ。
じわりと掌に汗をかく。濁った水のような気持ちの悪い不安が忍び寄って、それが思考を悪い方向に導く。
――もしかして、俺の考えが見抜かれてるんじゃ……。
俺が依子さんのために動いていることくらい組織は把握しているだろう。なら、式務を狙うという思惑にも勘付くかもしれない。
そうなるとお手上げだ。情報も薬も入手することはできなくなる。
気分が滅入ってきたところで慌てて頭を振った。楠木達を発見できたのも、かなりの時間をかけて街中を監視し、呪符を貼り付けている瞬間を目撃するという幸運に恵まれたからだ。
まだ諦めるときじゃない。一縷の望みに賭けて、俺はモニターを見つめる。
△▼△
火災が起きて三日が経った。事故現場からは既に警察も撤収していて、マンション周辺は閑散としている。
目立った変化は何一つなかった。
「……くそ」
苛立ちが口を突いて出る。前のめりの気持ちだけが行き場をなくして胸の中をぐるぐると回っている。
もしかすると警察に紛れて後始末をしたのかもしれない。こちらをおびき寄せるためにわざと燃やしたのかもしれない。
仮説ばかりが浮かんで消えていく。考えすぎて頭が熱くなり、モニターを見る目も霞んできた。
――……他の手に頼るしかないのかな。
ちらりと振り返れば、鎖に繋がれた楠木が真顔で俺を睨み付けていた。何を考えているのか読み取れない表情だ。
彼女を利用する方法は幾つか考えているけれど、戦闘力が高いだけに不用意には連れ回したくない。
――もしくは、楠木に喋って貰うかだけど。
何をすればこの少女が口を割るのか、考えてしまう。
でも訓練されたアヤカシ喰いだ。痛めつけたところで喋らないかもしれない。下手をして殺してしまっては元も子もない。
そうして頭の中で少女を嬲る想像を繰り広げていると、急に虚しくなった。
――なにやってんだろうな、俺。
俺はただ、依子さんに会いたいだけだ。アヤカシ喰いを痛めつけて復讐心を満たしたいわけじゃない。
むしろあれだけ拘っていた復讐の願いが、もうほとんど残っていなかった。
――依子さん、元気かな。
依子さんが恋しい。抱きしめたくて堪らない。首筋に顔を埋めて、彼女の柔らかさと匂いを感じていたい。ナイフを突き付けられた数多の体験でさえも、今では懐かしさすら覚えている。
膝を抱えて、膝頭の間に顔を埋める。
「依子さん……」
無意識に呟いてしまった。
後ろでジャラリと、鎖が動く。
「本当に三十六号のために動いてるんですかぁ?」
振り向くと楠木が俺を見つめて半笑いを浮かべていた。険しさの中に興味の色が混ざっている。
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