依子さんのための犠牲

 俺が一歩近づくとOLが一歩下がる。歩く度に彼女は数歩下がった。憤怒と屈辱で身体は震えていたが、向かってくる気配はない。


「来ないなら、こちらから行きます」


 地を蹴り走る。一瞬にしてOLとの距離を縮めた俺は、伸び揃った鈎爪を大きく振りかぶった。


「くっ……!」


 OLはナイフで応戦するのではなく、スーツの内側に手を突っ込む。取り出されたのは何枚もの呪符だ。それが俺の眼前にばらまかれ、意思をもつかのように円上に広がった。

 焦らず、即座に攻撃の方向を呪符へと変える。指先が呪符に触れた瞬間に眩い閃光が走り空気が振動した。

 が、それだけだ。妖力を遮断する力の前では呪符も効果を発揮しない。指先は傷一つ付いていなかった。

 そのとき呪符がひとりで発火した。焦げ臭い匂いと共に煙と消し炭が空気中に拡散し、一瞬だけ俺の感覚を惑わせる。

 それらを手で振り払ったとき、俺はハッとした。もうOLの姿はなかった。

 僅か一瞬のうちに影も形も消え失せている。最初から逃亡するつもりで目眩ましになる呪符を使ったみたいだ。


 ――あの人。仲間のこと、見向きもしなかったな。


 一人だけ逃げることへの躊躇いなど微塵も感じなかった。確かに窮地ではあったし守る余裕もなかっただろう。それでも自分を頼っていた年下の少女に呼びかける素振りくらいあってもよかったはずだ。

 それがあの女は、仲間を平気で捨てた。組織に属する戦士として妥当な判断だとしても、胸がムカついて堪らない。

 どうせ強かな連中は、捨てられる者の気持ちなんて考えたこともないんだろう。


 ――……いや、でも。この子だって、アヤカシを何体も殺してる。


 同情を消してふうと息を吐いたとき、周囲から隔絶されていた公園に音が戻ってきた。車のエンジン音、近隣住民の声、木々が風にざわめく音を、発達した聴覚が捉えている。張られていた結界が切れたということは、あのOLが遠ざかったということだ。


 取り逃がしたことで、おそらくあの女は増援を呼んでくる。この街に潜んでいるのがわかったのだから全力で叩き潰しに来るに違いない。

 大丈夫、想定内だ。こちらとしてはアヤカシ喰いを一人確保できれば問題ない。その身柄さえあれば、色々なことが実現可能になる。

 女子高生の身体を肩に担ぐ。折れた日本刀も竹刀袋に入れて手に持ち、俺は夜空へと跳躍した。


 △▼△


 公園に佇んでいた銀髪の妖狐は、アヤカシ喰いを肩に担ぐと高く跳躍した。電柱の上に降り立つと更に跳躍し、近場にあった家屋の屋根に降り立つ。そして屋根から屋根へと飛び跳ねて移動していく。

 その様をマンションの屋上から眺める一人の女が、いや、アヤカシがいた。

 棗は遠ざかっていく太一を見つめ、驚きとも呆れともいえない表情を浮かべる。


「……本当に一人でやっちゃったよ、あいつ」


 可能性は否定しなかったものの、実現するはずがないと思っていた。だから棗は、いつでも介入できるよう身構えていたのだ。

 公園には結界が張ってあったが、呪符による人払いなど彼女には児戯に等しく覗き見は容易かった。ただしすぐには飛び込まず、棗は機会を待った。すぐに出ていくと、まるで太一を心配して後を追いかけたように誤解される気がしたからだ。

 時間を置きつつ「面倒だけど飼い主だからさ~」と迷った末に出て行ったほうが一応は体面を保てる。

 そうして遠くから戦闘を眺めていた棗は、太一の持つ日本刀が折れた段階でしょうがない助けてやるかと重い腰を上げた。

 が、そこから予想外の展開になった。


 太一は折れた日本刀をうまく使って血を採取することに成功した。切っ先に付着したほんのわずかなアヤカシ喰いの血が、彼を銀狐へと変貌させる。

 決着は一瞬だった。アヤカシ喰い一人を捕獲し、もう一人を退散させることに成功した。ほとんど太一の計画通りに終わってしまった。

 その事実に、棗は驚嘆と不愉快さを覚える。


「これも依子さんのため、か」


 しぶとい男だとは思っていたが、実力が変わるわけではない。成功する確率はないに等しかった。

 その僅かな勝率を、太一は己の元に手繰り寄せた。愛する女と添い遂げたいという欲望が彼を賢明にさせた。

 普通、生物は自分の生命維持を第一に考える。アヤカシとてそれは変わらない。死の恐怖には抗えない。

 だが太一は、自分の命よりも愛する者を優先し、死の恐怖を意図的に跳ね除けた。


「……あたしに拾われなかったら死んでたくせに」


 独白の声音は、棗自身が思うよりもずっと低く冷え込んでいた。

 何もかもが気にくわない。太一が依子のために命を賭けることも、銀狐になった彼が棗より強いかもしれないことも。

 助けを求めず一人でやりきろうとしたことも。

 全てをぶち壊してやりたい衝動が生まれる。それを棗は、奥歯を噛み締めてぐっと抑える。

 腹立たしくはあるが、計画は前進した。ならばアヤカシの一人としてやるべきことがある。苛立ちを呼気に含めて吐き出し、棗はその場を後にした。


 △▼△


 棗さんの自宅がある雑居ビルの屋上で、俺は数分間ほど放心していた。近くには担いでいた女子高生が倒れている。心臓がバクバクと高鳴り、着地の衝撃で足が震えていた。


「あ、ぶなかった……!」


 呟いた途端に実感が湧いてゾッとする。俺は自分の頭や腰の後ろを触り、現状を確かめてから震える息を吐いた。

 帰宅途中、予想外の事態が二つ起きた。

一つは変怪が切れてしまったことだ。

 依子さんの体液で変怪したときはもっと長い時間妖狐でいられた。今回はまだ一時間も経過していない。

 もう一つはビルからビルを飛び移っている、その最中に変怪が切れたことだった。女子高生を担いで移動すると目立つだろうからこの移動方法しかなかったわけだが、銀狐の状態なら難はなかった。でも、空中で異変を感じたとき俺は止めておけば良かったと心底後悔した。


 もう飛び立っていた段階で引き返すこともできず、身体からは容赦なく煙が出てるしで軽くパニックに陥った。浮遊感の心地よさが恐怖に変わって、地面激突のイメージが過る。

 幸いなのは棗さんの住処に到着する寸前だったことだ。必死に前へ前へと身体を傾けて、本当にギリギリの場所で屋上に落下することができた。身体を打って派手に転がったけど命は助かった。

 ただ衝撃で女子高生も手放してしまった。彼女は無事だろうか。


 俺は四つん這いで少女に近づき、倒れている彼女の口元に手を当てる。息はある。瞼をきつく閉じていて顔色も優れないが怪我もない。

 ほっと胸を撫で下ろすと、不安が消えたせいか疑問が台頭した。


 ――なんでこんな早く終わったんだろ……血の量が原因? いやでも、依子さんのときとそう変わらない気もするし。


 量の問題でないなら、形質の違いだろうか? 血だと効果が薄い、とか。

 そう考えて顔に熱が篭もる。


 ――も、もしかして唾じゃないとダメなのか!?


 依子さんとのディープなキスを思い出す。まさか粘膜摂取の方が持続時間が長いとか、そういう理屈じゃないだろうな……。

 倒れている女子高生の方を見る。彼女の薄いピンク色の唇が目に入る。俺はなぜか気まずくなって目をそらしてしまった。


 ――って待てよ俺。断定するのは早い。落ち着こう。


 一人で勝手に気まずくなって騒いでいる場合じゃない。そもそも依子さんとこの子は同一人物ではないので、比べようもないだろう。もしかすると遺伝とか血液型とか、そういう身体的性能が関与してるのかもしれないし。

 あとはそう、敵だろうと何だろうと、ディープなキスをして変怪するというのも心理的に憚られる。依子さんが相手ならともかく……。

 むしろこの変怪方法を押し通したら依子さんに殺されるなぁ。


 空恐ろしい想像を広げた俺は、両手で頬を叩き意識を切り替える。時間は短くなったとしても変怪はできている。一時間弱もあれば戦闘にだって耐えれる。今はこれでよし。

 俺は日本刀の入った竹刀袋を手に持ち、女子高生を背負ってから棗さんの自宅へと向かった。後ろ手でドアを開けてからそっと室内に入る。


「……戻りました」

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