依子さんを抱えた逃亡劇 上

 依子さんの負傷の原因は間違いなく、あの白スーツを身にまとったアヤカシのせいだ。

 人型に擬態していても感じるくらい、どのアヤカシとも違う威圧感と禍々しさを持っていた。依子さんほどのアヤカシ喰いがここまで追い詰められたことが理解できなかったが、その姿を一目見ただけで納得してしまうくらいに、圧倒的な存在感を放っている。

 俺がどうにかできる相手じゃない。留まれば依子さんは確実に殺される。一刻も早く遠ざかるために、俺は住宅街の奥に入り込んで細い道をひたすら突き進んだ。


『どこへ行くつもりかね、ダンピール』


 突然の声に悲鳴が出そうになる。急停止して、マンションに挟まれた細い路地の奥を凝視した。墨のような闇が広がっているだけで、人の形は視認できない。


『失礼、違うな。我が種の血が一滴も混じっていない者に、かような呼び名は不適合か。ではなんと呼べばよいだろうな? この国の固有名称は確かアヤー……うむ、呼びにくくて好かん。まぁ、雑種とでも呼ぶとしよう』


 驚愕にかられて周囲を見回した。声は前方だけでなく四方から聞こえてくる。妖術か幻術の類かはわからないが、気配をまったく知覚できない。


『で、雑種よ。その娘を連れてどこへ行くつもりかね』

「……っ」

『答えよ』


 語気が強まる。たったそれだけで、肺を握られたかのように呼吸が苦しくなった。心臓が暴れ狂い、濃厚な死の気配に身体の筋肉が強ばる。


「か、彼女は……」


 ひりついた喉で出す声は掠れていた。

 このアヤカシに逆らってはいけないと本能が警告する。これ以上の怒りを買わないようにと、俺は愛想笑いを浮かべて説明のための言葉を探した。生き残るために自己弁護を図ろうとした。

 その瞬間、風船が破裂したかのように自己嫌悪が溢れる。


 ――依子さんを見捨てる気かよ、俺は!


 見逃してもらえる方法は一つ。都合のいい弁明を並べ立てて依子さんを差し出すことだけだ。一瞬でもその考えが過ぎったことに自分で自分が許せなくなる。

 依子さんを犠牲にして生き延びることなど、できるわけない。

 かといって馬鹿正直に答えれば敵と見なされ攻撃を受けるだけだ。

 むしろ攻撃してこないのは、半妖の俺が助けているという事情が飲み込めず様子を伺っているのだろう。


 ――まだ逃げるチャンスはある……!


 相手が出方を伺っている間に距離を離すしかない。震える膝を強引に前に押し出す。

 そうして走り出そうと前屈姿勢になった瞬間。

 右脚のふくらはぎに激痛が走った。

 バランスを崩して前のめりに地面へ倒れる。依子さんを庇って肩を強く打ったが、痛みよりも驚愕の方が強かった。

 振り返ると、右足に突き刺さった何かが杭のよう俺を縫い止めていた。

 ソレは漆黒の刃だ。一切の光沢を排除した刃が地面から生えて俺の右足を穿っている。記憶にある限り、そんな物騒なものは道路上にはなかったはず。

 刃はジワリと赤く染まる。異物が侵入した痛みと共に血液が流れ出て刃を濡らしていく。

 その赤色が急に消えた。血が止まった?

 いや、そうじゃない。漆黒の刃に。吸血する刃の空恐ろしさに肌が泡立った。


『やはり祓魔師とも違う味か。勘違いかとも思ったが、そうではないようだ。しかしそうなると益々奇妙ではないか。その娘は忌まわしき祓魔師が一人。それをなぜ、雑種とはいえ超越者の端くれが庇うような真似をする?』


 姿形は見えないのに、まるで耳元で囁かれているような感触だった。俺は思わず依子さんを強く抱きしめる。


『面妖とはこのことよ。鬼共に与し娘を罠にかけた男が、今は愛しげに抱いているのだからな』

「なっ……!?」


 俺が驚いたことがよっぽどおかしかったのか、含み笑いする気配が漂った。


「俺達を、知って……?」

『ああよく知っているとも。呆気なく食い殺されたことも知っている。なにせ貴様らは祓魔師を炙り出すために我が組んだ盤面の駒だ。指し手が把握していないことなどあるはずもなかろう?』


 愉快そうな声に頭が真っ白になった。男の言葉を全て理解したわけじゃない。けれど、何の事実を指し示しているかくらいはわかった。


「だ、だって、アヤカシ喰いを捕えようとしたのは、あの四人だけで決めてたはず」

『然り。鬼共はまさに自ら情報を入手し祓魔師への誅伐を決断した、そう思い込んでいる。我が采配により祓魔師の張る罠に飛び込んでいったことなど、死ぬ間際まで気づかなかったろうな』


 抑揚のない声が、俺の心をかき乱した。

 じわじわと感情の波紋が広がり、恐怖で凍てついていた胸の内を震わす。


「……どうして」


 白タキシードのアヤカシが何者なのかは知らない。でも、一つだけはっきりさせなければいけないことがある。


「鬼達が殺されたとき、助けに来なかったんですか……!?」


 虚空に俺の叫びが響いていく。人気のない路地には沈黙が落ちた。

 気を失ったままの依子さんを胸に抱きながら、俺は動かせるだけ首を動かして男の所在地を探る。


『……あまりに意味のわからない言葉だな。それは誘導尋問の類か?』


 声が聞こえる方向は数秒ごとにバラバラになって、やはり位置を特定できない。

 内心では焦りと、そしら苛立ちが積もった。


「意味がわからないって……! 同じアヤカシでしょう!?」

『雑種ともなると聴覚まで不自由になるようだな。それともジョークのつもりならば、もう少しユーモアのセンスを磨いたほうがいい。例えばそう、悪辣で粗暴でスマートさの欠片もない“角持ち”を同胞と呼ぶには、もう数百年ほど年を経て老成しないといけないな、とか』


 返答には侮蔑だけが込められていた。その無味乾燥な態度は熱のこもった頭を急速に冷やす。そして、相手のほうがことを痛感する。

 アヤカシの多くは、だけを同胞と認める傾向がある。その偏った同族意識こそが、半妖の俺を拒む壁でもあった。

 それがアヤカシの理屈なのだと、理解はできる。でも納得はできない。


「だとしても……アヤカシ喰いを特定しておいて、何であの場にいなかったんですか」

『面倒は避けたい性分でね。この街に張り巡らされた結界や呪式の解除をしてからでないと無駄に時間が長引くであろう。祓魔師一人など造作もないが、抵抗されては服も汚れるしな。その点、鬼どもは我の工程を隠すのに役立った』


 それはつまり、自分の都合だけで鬼達を捨て駒にしたということだ。

 反吐が出そうな気分だった。 


『それに、だ。懇意にしている旧友の頼みとはいえ、せっかくこのような極東の島国にまで足を運んだのだから、すぐに終わらせてはつまらぬだろう?』


 前方から足音が聞こえた。男が近づいてきたのかと思って俺はすぐに目を向ける。

 しかし、現れたのはまったくの別人だった。

 くたびれた背広を着る五十代ほどの中年男が、こちらに向かって歩いてくる。

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