依子さんを抱えた逃亡劇 下

 ――あそこだ!


 瞬時に判断して方向転換する。人気の無い道路に面したその敷地は、マンションの建築現場だ。

 資材置き場を通り越して鉄の骨組みに近づく。幌が張ってあるだけで壁の施工すら終わっていない、まさに建築中の物体だった。剥き出しの鉄骨はビル七階ほどの高さまで組み立てられている。この高さなら十分だろう。


 後方から地鳴りのような足音が聞こえてくる。まるで幽鬼のように、傀儡達が建築現場に侵入してきた。

 俺は依子さんを抱きしめて一気に跳躍する。まず近場の鉄骨の上に乗り、更にもう一段ほど鉄骨の上に飛び乗った。

 不確かな足場でしゃがんでから、地面の方へ目を向ける。思った通りの光景が広がっていた。

 傀儡達は鉄骨にしがみつきよじ登ろうとしているが、速度はかなり遅い。いくら常人離れした筋力を発揮しても、理性が働いていなければ“跳躍”という手段も試すはずがなかった。

 

 ただ中には、他の人間を踏み台にして上ろうという人間も出てくる。そういう場合も想定していた。幌の固定に使っていた鉄パイプを数本ほど拝借して、思い切り投げつける。

 鈍い打撃音と共に人間達が崩れていった。命じられるがままの傀儡は俺に向かうのを止めないが、ある程度勢いを削ぐことには成功した。他の経路を探す素振りもないけれど、攻撃を続けるだけでは安心できない。


 ――多分、まだ増え続ける。


 アヤカシがどうやって傀儡を作っているのか。冷静に確認すると一目瞭然だった。

 人間達の首筋には小さな丸い空洞が二つ穿たれている。鋭利なものを突き刺したような跡だ。

 それが何を示しているのか理解すれば、自ずとアヤカシの正体も判明する。


 ――不死のアヤカシ……吸血鬼なら、相当長く眷属を操れるはず。もっと離れないと。


 闇に住まうアヤカシは、全世界にその名を轟かせるほど強力な種属だ。彼らは人間の身体に自分の妖力を流し込み、血を媒介にして意識を乗っ取る術を持つ。傀儡の動きを止めるには宿主を殺すか、術者を倒すしか方法はない。

 資材を投げつけるだけでは決定力に欠けるし、そうこうしている内に数が増えて抑えられなくなる。相手をするより、距離を稼いで回復に専念したほうがまだマシだろう。

 それにしても、吸血鬼なんて物凄く上位のアヤカシと敵対するとは思わなかった。こんな状況じゃなければ、会えたことに感激していたかもしれない。


「……ん」


 自嘲気味に笑っていると、依子さんの唇から微かに声が漏れた。意識が戻りかかっている。

 俺は頭を振り、最上階を目指して鉄骨の間を移動した。今はとにかく依子さんを休ませてあげたい。それに俺一人で太刀打ちできなくても、時間が経てばこの場所にアヤカシ喰いの仲間が加勢に来るかもしれない。

 そうして一縷の望みにかけながら最上階に到達すると。

 何もない開放的な空間を、満月が見下ろしていた。

 そして淡い月光を背に受けた白スーツの男が一人、悠然と佇んでいる。


「悪くない一手ではあった。しかしこれでチェックメイトだ。味気ない幕切れではあるが、手仕舞いとしよう」


 腰の後ろで手を組んだアヤカシが冷笑を浮かべる。目は落ち窪み頬がげっそりと削げた不健康そうな顔立ちながら、その黄金色の瞳は生気と殺気に満ちて爛々と輝いている。

 鉄骨の上を歩む吸血鬼の身体は、まるで熱波のような揺らめきに包まれていた。それは妖気の奔流だ。凄まじい妖力が体中から放出され大気を歪めている。

 俺は鉄骨の上を後退しながら地表を見下ろす。傀儡達がひしめき合い獲物が落下してくるのを待ち構えていた。逃げ場はない。


 ――あとは、時間稼ぎだけか。


 冷静にそんなことを考えて、ふと気づく。

 不思議なくらい恐怖が消え失せていた。


 それは多分、自分が助からないことを悟ったからだ。


 アヤカシと直に対峙してよくわかった。勝ち目なんて皆無。善戦すらできないだろう。わずか数分程度持ち堪えるのが関の山か。

 でも、その間に依子さんが目覚めてくれれば、彼女だけでも逃がすことができる。

 数分後の死は避け難くても、俺にはまだ、戦う意味は残っている。

 

 鉄骨の上を移動して、資材を置くために張ってある簡易的な床面の上に依子さんを寝かせた。血色は悪いままだが、ここで依子さんも身体を休められる。

 振り返ると、立ち止まったアヤカシがこちらを興味深げに見つめていた。観察するだけの余裕があるということだ。

 それでいい。油断してくれるだけ時間も稼げる。

 俺は深く息を吸って体内に眠る妖力を呼び起こした。筋肉は膨張し髪は銀色に染まり内側から溢れる興奮に身を委ねる。


「わからぬな。勝機など万に一つも存在しない。ここで女を置いて逃げるほうがよほど生存の確率も上がろう。それでも貴様は、人間の女を庇うというのか?」

「……仕方ないんです」


 アヤカシに向かって苦笑いしてから、ちらりと背後を振り返る。

 どうしてこうなったか? 答えなんて持ち合わせてはいない。

 ただ心の奥底では、これが正解なのだという確かな感触がある。


『お前は男だから。きっといつの日か、大事な人を守る番がやってくる』


 いつぞや聞いた、叔父の言葉が蘇る。

 あのときは意味がわからなかったけど、今なら理解できる。

 俺は、このときのために生き続けていたんだ。


「命よりも大事なものが、あるから」


 その返答はアヤカシを少し困惑させたようで、男は両眉を上げていた。それからくぐもった笑い声を上げる。


「真に愚かしい男だな。だが、その自己犠牲は一見の価値がある。貴様、名は何という」


 今度は俺が戸惑う番だった。アヤカシから策略や罠の気配は感じられない。純粋な興味から問うている気がした。


「……太一」

「ではタイチ、英国紳士として我も名乗り返そう」


 組んでいた手を解き、アヤカシが自然体のままこちらを見据える。

 瞬間、闇が蠢いた。月の光を背に受けて生まれたアヤカシ自身の影法師がぐにゃりと動き、意思を持ったように変形していく。

 影は四つに分裂すると、地面から剥がれてゆらりと起き上がった。アヤカシの爪先と繋がっている影達はそれぞれ鎌の形となり男の傍らに寄り添う。

 おそらく、あれが俺の右足を切り裂いたものの正体だ。自身の影を操る妖術なのだろう。


「我が名はユーエル・ウルトガル。神祖不死王より生み出されし吸血族が一人。さぁ、命をもらい受けよう」


 ユエルと名乗った吸血鬼が手を掲げる。揺らめく黒鎌が解き放たれる。

 俺は短く息を吐いて、死地へと飛び込んだ。

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