依子さんと仲直り
「たーくん、よくわかんないよ……」
「ごめんごめん……ええと、話が逸れたね」
依子さんに向き直る。血を流す小指はズキズキと痛むが、笑っているせいか怒りも麻痺していた。
「依子さん。やっぱりもう少しだけ時間をください。このまま流されていくだけだと、後悔すると思うから」
依子さんの瞳に落胆の色が差し込む。だから、俺はすぐに彼女の腕を掴んでこちらに引き寄せた。ふわりと軽い身体を自分の胸に抱きしめる。
「まだ話は終わりじゃない。さっき言ってたよね、俺を喰うことはできなくなるとか、生活が変わるとか」
「……うん。まだ確定じゃないけど」
「なら考える時間はある、かな」
「えっ?」
予期せぬ言葉だったのか依子さんが俺の胸の中で顔を上げる。俺は頷き、両手を彼女の背中に置こうとして、右手が血だらけなことに気づいた。しょうがないので左手だけで彼女の背中を擦る。
「俺はまだなにも許せてない。アヤカシ喰いのことは憎いし、復讐もしたいと思ってる」
「……うん」
「妖狐の子として、アヤカシの一人として生きたいと今でも思ってる。人間側に付くこともあり得ない」
「……」
「だけど俺は、その憎しみを君に向けることができない。多分アヤカシ喰いの一人じゃなくて、御影依子という一人の女性として見ているから」
依子さんは、俺のシャツの裾を遠慮がちに指で掴んだ。
「俺は、この感情に答えを出すよ。君とどうなりたいのか。俺自身が、どうやって生きていくのかを」
「たーくん……」
「それまで俺は逃げない。だから、俺を喰わないで、依子さん」
じっと黙していた依子さんは、ややあって俺からゆっくりと離れる。
そして「……しょうがないにゃあ」と言って、くすりと笑った。
今までの中でとびきり美しく、儚く、人間味に溢れていた。
「善処する。私も、たーくんとのこともっと考えてみるから」
「……ありがとう」
「でも、これくらいはいいよね?」
ひょいと俺の右腕を取った依子さんは、傷ついた右小指をぱくりと口に含む。ギョッとしたものの、依子さんは腕をがっしりと掴んで離さない。
傷口に鈍い痛みが走った。口腔内で艶めかしく動く彼女の舌が血液を舐め取っていく。無遠慮に俺の肉と神経に触れて、俺の一部を喉の奥に流し込んでいく。
傷口を舐める依子さんの顔は恍惚としていた。その表情を眺めている内に、不安が薄れ快感が伝播してくる。
依子さんの身体に自分の一部が入っていくのが心地いい。
同時に、彼女の一部を自分の中に取り込みたくなる。
その不可思議な衝動は、依子さんが口を離したことで急に収束した。小指は傷口こそそのままだが、血は綺麗に拭われ唾液でぬらぬらと光っている。
「美味しいけど、やっぱり薄いね」
身体の味について聞かされた俺は、苦笑いするしかなかった。
△▼△
結局、俺は依子さんの傍にいることになった。
自分から逃げ出した部屋でまた料理を作っているというのは、他人から見てどんな風に映るんだろうか。きっと、俺の方も頭がおかしい的な感想が出るに違いない。
でも俺は、自分の意思で彼女の元に留まっている。逃げ遅れたことも今となっては後悔していない。もしかすると、無意識にこうなる予感があって戻ってしまったのかもしれない。
どうやら俺は、依子さんに惹かれているようだった。でなければ身の危険があるのに安否を確かめに戻ったりはしない。欲情して襲いかかるのも初めてだし……。
正直、だいぶ複雑な気分だった。依子さんは人間で、アヤカシ喰いの一人で、俺を監禁するようなぶっ飛んだ感性の持ち主だ。普通に考えれば好きになるなんてあり得ない。
それでも俺は依子さんの笑顔に釘付けになる。触れていたくなる。
あれだけ脅され傷つけられたことを度外視しているのだから自分でもどうかしていると思うけど、なってしまったものはもう仕方がない。
とにかく、俺は答えを出さなければいけない。依子さんとどういう関係になりたいのか。そして、彼女と一緒に生きる道を選ぶのかを。
逆にいえばそれは、アヤカシとしての自覚と力、復讐心を捨てることと同義になる。憎悪を向けるべき連中に迎合することを、受け入れなければいけない。
許せるとは思えなかった。母達の無念を、置いて逃げた悔恨を忘れることもできない。アヤカシ喰いの役に立つのも感情が拒否する。でも依子さんと添い遂げるなら、迷いや怒りは邪魔になる。
期限はきっかり一週間。それが俺に与えられた猶予になった。
△▼△
「留守番電話を聞いた? そっか、案外早かったな」
廊下での騒動後、まず情報を整理したかった俺は留守番の件を告白した。着替えた依子さんは、ダイニングテーブルで俺の作ったケーキを食べながらそれを聞いていた。依子さんは特に驚いた様子もなくもくもくとスプーンを口に運んでいる。
「通信機器、使えないはずじゃ……」
「あれは特別。緊急用ケーブルを使ってて、回線は一本しか通ってないから外部とは隔絶されてるの。それでも利用される危険があるから滅多なことでは使わない」
「じゃあ、依子さんの場合はその滅多なことだった?」
「んーどうだろう。私、結構優等生だから一般人を巻き込んでるって疑惑に慌てたんじゃないかな」
本気なのか冗談なのか判別しにくい台詞だった。当の本人は「ケーキうまー」とホクホク顔になっていてやっぱり心の内が読めない。
「依子さんが定期接種をサボったのも大きかった、とか」
「ん、鋭いね。確かに長期間、定期接種を止めてると死んじゃうし」
依子さんは、まるで他人事のようにサラッと言ってのけた。
「……それは、アヤカシの妖力を摂取し続けても?」
「うん。薬は継続しないと効果が保てない。今は大丈夫でも、生体侵食は徐々に抑えられなくなって多臓器不全に陥る」
俺は対面に座る依子さんに戸惑いの目を向けてしまった。だったら、なんでここまで定期接種に行かなかったんだと。
顔にその疑問が現れていたのか、依子さんはケーキを食べる手を止めて静かに告げた。
「私が定期接種に行かなかったのは、たーくんのためだよ」
「……俺の?」
「たーくんは一つ重要なことを忘れてる。あなたは鬼達の策略に協力して滅怪士に敵対した。その時点で抹殺対象なの。私が匿わなかった場合、他の滅怪士か監部課の人間に殺されてる」
依子さんは淡々と事実を述べた。その調子が逆に、覆らない運命を物語っているようにも聞こえた。
「一応、神隠しの呪符で判明しないように移動したし痕跡も消したけど、やっぱり感づかれてたみたいね。その状況で支部に行けば尋問か、もしくは証拠を得るための監視呪符を強制される。そうなったら、たーくんは確実に殺される。たーくんだって私以外の人間に殺されたくないでしょ?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます