第100話「………帰る」

「ねぇ、大丈夫?」


リーゼロッテが声を潜ませながら近寄ってくる。


「………………」


私は何も答えなかった。答える気力がなかったからだ。

疲れた、マジで疲れた。運動したわけでもないのに体力が削られたみたいだ。

なんで私が悪いわけでもないのにこんなに疲れなくちゃいけないんだ。理不尽すぎる。

今は気遣いの声すら忌々しい。


感情が目まぐるしく変化し続け、もうヘトヘトだ。

正直、ここ数分で感情の起伏が激しかったのは今日が初めてかもしれない。

まったく、最悪な気分だ。何もかも思い通りにならない。


「………帰る」


「え?」


聞き返される声も忌々しく感じる。


「ちっ、だから帰るって言ったんだ」


私は隣のリーゼロッテを半ば押しのけ、着替えるため店の奥に進んだ。そして1分とも思える早さで着替え、再び店に戻った。私が普段着に着替えたことで再び、視線が私に集まる。私は大きく舌打ちし、乱暴に握っていた帽子をさらに強く握りしめる。


「レ、レイ―」


「うるさい」


戸惑い気味に声をかけてきたリーゼロッテを短く、かつ鋭い言葉で拒絶した。


「………っ」


私の間髪入れない拒絶の言葉にリーゼロッテはビクッと体を強張らせた。私は舌打ちの代わりにふうっと息を吐き捨て、固まっているリーゼロッテを素通りする。


私が苛立っているのは次々起こる想定外のこともあるが、一番の理由は心身からくる疲労感だった。自分の姿は自分では見えないので想像することしかできないが、今の私は苛立っているとともに憔悴しきった空気も纏っているだろう。それを察したのか、リーゼロッテは乱暴な足取りで外に出ていこうとする私に声を掛けることも引き留めることもしなかった。


とりあえず、空気を読んでくれたことだけはありがたいと思うべきか。


私はあえて誰の顔も見ようとしなかった。もちろん、アーサーの顔も。

ていうか、顔なんて見たくないしどんな顔で私を見てるかなんて知りたくもない。

しかし、難聴でもない限り嫌でも耳から音が入る。後ろのほうで「話がまだ終わってない」ってうるさく騒いでいる男が私を引き留めようと必死に声を張り上げているのがわかる。


やめろや、今はオマエの相手をする気力がないんだ。ていうか、まだそれ言い続けるつもりか。

下手に言い返したら面倒になるのは目に見えているため私はその声に対し徹底的に無視を決め込むことにした。


ドアの前に立ち、帰るためドアノブを回そうと手を伸ばす。しかし私が開けるよりも先にドアが開き、二人の女性客が入ってきた。入った瞬間私が目の前にいたため、女性客は少し驚いた顔をして動きを止めた。それを私は冷めた思考で眺めた。


このタイミングで入って来るのかよ。私が今、まさに帰ろうとしたこのタイミングで。

ただ食事にしに来た女性客たちは悪くないとわかっていても、目を細めて睨んでしまう。

面白くない。

私は舌打ちしたい気持ちをぐっとこらえ、ドアの半分が女性客の身体で遮っているにも関わらず身体を無理やり入れた。女性客が多少よろけたとわかっていたが、私はかまわず外に出た。


瞬間、天から降り注ぐ陽の光が顔に当たり、目を瞑る。

ああ、もう。まぶしいな、まったく。


今日は朝から雲の少ない晴天で、澄み渡った青がずっと広がっている。むしろ、昼がとうに過ぎた今のほうがより陽の光が強い。ありふれていてよくある空模様。でも今は小さなことでも過敏に反応してしまうため、目を背けるほどの太陽の光は私を苛立たせる十分な材料だった。


私の心中は今、苛立ちと疲労感で淀んでいる。今の私に晴れ渡った空模様は不快感しか感じさせなかった。正直、憔悴しきった私に合わせて空模様も曇っていてほしかった。


少しは曇れよと。

私は一切曇る様子のない空に小さく毒づきながら、顔から陽の光を遮断させるため深く帽子を被った。


★☆★☆★☆★


今日も相も変わらず市街の中心部は賑わいを見せている。

もう、何度も見た光景だ。だからなのか写真でしか見たことがないような趣のある建物を目にしてもさほど情動が動かなかった。あれほど慣れたくないと思っていても時間が経つにつれ、自然とこの世界に無意識下で適応しつつあるらしい。


私はジャケットに手を突っ込んだまま雑踏を突っ切り、足を進ませていた。


何もかもが気に入らないしうんざりだ。肝心な時にいないうさぎにもいちいち相手にしなくてはいけない攻略キャラにもあの従兄にもうんざりだ。そして無意識下でこの世界に適応しつつある自分にさえうんざりする。感情が不安定で鬱になりそう。


面倒事に適応すれば不快感が肥大化しないと思っていたのに。

心構えさえできていれば多少の想定外も淡白でいられると思っていたのに。


「………………………ああ、もういいや。帰って寝よ」


私は大げさに見えるほどがっくりと肩を落とした。


もう何も考えたくない。

これ以上あれこれ考えたらまた無駄にイライラしそう。イライラすると疲れる。

早く帰ってベッドに突っ伏したい。たぶん、ベッドにすぐ入ったら明日まで目を覚まさない自信がある今日はマジで疲れた。従兄のこと含めこれからのことは明日考えよう。

そして明日起きたらすぐにうさぎを回そう。


早く帰りたい。帰りたいけど家が遠い。なんて理不尽なんだ。


「まったくなんで30分も歩かなきゃいけないんだよ」


この世界には交通手段はほとんどが徒歩だ。徒歩以外の交通手段があるとすれば馬車か船。時折、市街で馬車が走っているところを見かけるが馬車の利用は遠方に渡るか大量の荷物運搬らしく、少なくても徒歩で30分程度の距離ではよっぽどの理由がない限り利用することはないらしい。


まぁ、馬車の手配の仕方なんて知らないから結局関係ないになるけど。


こういうときこそ、バスや電車を思い出す。懐かしい。なんて便利だったんだ、公共交通機関。


私は盛大なため息を吐く。

考えるのはやめよう。ないものを懐かしんでもしょうがいない。しかも、辟易している今のような状態で考えると余計に疲労が増しそう。


今は帰ることだけ考えよう。

帰って寝ることだけを考えよう。かんばれ、私。ベッドが待ってる家に帰るんだ。


私は帽子を被りなおそうとジャケットから手を出そうとした。

けど、やめた。


「………なんか、嫌な予感がする」


これはやばい。このもやもやとした胸の中で蠢いているような不快なものはよく知っている。特にこの世界でよく感じ取っている。これは言うなれば、ただの勘。しかし、私にとっては根拠のないこの勘はもはや本能。本能で私に危険信号を出している。

今から私に面倒事の再来が来るという危険信号を。


なんだ一体?喧嘩か?誘拐か?ナンパか?それとも店の誰かが追ってきた?


やめてくれよ。マジで今日は勘弁してほしい。私はこのまま帰って寝たいんだよ。

これ以上の面倒事は完全キャパオーバーだ。この勘はマジ外れてくれ。


そう切に願ってきても、危険信号は徐々に大きくなってきているのがわかる。


私は面倒事を避ける方法を疲れた頭で必死で考える。


①徹底的に無視する

②家まで全力疾走する

③死んだふりをする

④とりあえず殴る


「だめだ、疲れているせいかアホくさい考えしか浮かばない」


まず②はダメだ、というか無理。こんなクタクタな状態で走ったら家に着くころには気絶する。

次に③。論外中の論外であり意味不明。死んだふりって熊じゃあるまいし。これ以上醜態晒してどうする。除外だ除外。頭が回っていないにも程がある。

そして④。無理無理、今そんなエネルギーはない。人を殴るのって意外と体力使うからな。拳を振り上げたとしても効果音がバチンではなくペチリという弱弱しいものになりそう。

やっぱり、一番無難と言えば①か。

話しかけられても無視。人が倒れていても無視。近く爆発が起こっても無視。

無視無視無視。今は何が起ころうとも無視できる自信がある。


手も掴まれないようにしないと。

私はジャケットのポケットに両手を深く突っ込んだ。


私は歩調を速めた。余計なものに目移りしないように。

そしてただ、ベッドに入って寝ることだけを願って。


話しかけるなよ、何も起こるなよ。

話しかけるなよ、何も起こるなよ。

話しかけるなよ、何も起こるなよ。


何度も頭の中で念じる。冷たい風が頬を打とうが、雑踏で騒音のように聞こえる大量の人の声があちこちから耳の中に入ろうが足を緩めない。


歩く。

歩く。

歩く。

歩く。


ずんずん前に歩いていると突然、後ろに引っ張られた。


「うおっ!?」


私は驚きの声を上げ、転ばないように後退した足に力を込めた。


「………………おい」


私は後ろを振り向かず低く唸った。もちろん、後ろで私の腕を掴んでいる相手に向けてだ。

そう、私は手ではなく腕を思いっきり掴まれたんだ。 後ろにいる奴はジャケットに入れられた手を掴めないと踏んで、代わりにむき出しになっている腕を掴んだというわけだ。


ふっざけんな。転びそうになったんだぞ。今は誰の相手もしたくないんだ。

今の私には殴る気力も怒鳴る気力もないんだよ。


何度目だ?この突然腕やら手やら掴まれるデジャブは。


一体誰だよ。アーサーだったら泣くぞマジで。


私はげんなりとした様子をあからさまに出しながら振り向いた。


「………………オマエかよ」


心の底からの声だ。

そこにいたのは息を切らして私の腕をがっちり掴んでいるバスティアンだった。

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