第9話

 仮釈放には、たっぷり3年を要した。3月だというのに、まだ少し肌寒い。

 綾香が刑務所を出ると、砥石が立っていた。

 【お帰り、篠原】

「     」

 綾香の口は動かない。すっかり凝り固まってしまった脳で、じっと砥石を認識していた。

 【寒いだろ、これを着ろ】

 わざわざ用意したのか、砥石は綾香に分厚いコートを着せた。温かさがじんわりと、身体の芯まで染みわたるのを感じた。

 【どこか行きたい場所はある?】

「     」

【……そうか。とりあえず、うちに来たまえ】

 肩を抱かれ、導かれるままに、砥石の車に乗せられた。砥石は慣れた手つきで車を運転する。時折心配そうに、バックミラーで綾香の様子をうかがった。

 牢の中で、綾香は様々なことを考えた。文人を殺してしまった後悔と自責、時計を使わせてくれなかったばかりか警察に通報した砥石への憎悪、牢の中での人間関係や懲役の辛さ。そして、裕介のこと。今となっては、綾香の思考は、今まで考えていたことを述懐する機能しか持っていなかった。

 【私の家に着いたら、とりあえずシャワーを浴びたまえ。いや、別に篠原が汚いという意味ではなく、な。熱いお湯を浴びて、一度すっきりするといい。その後、一緒にご飯を食べよう】

 沈黙が苦しかったのか、砥石はいろんなことを喋った。綾香が返事をしなくても、言葉を途切れさせることはない。もしくは元気づけようとしてくれているのか。

 砥石への憎しみも含めて、昔の様々な思いは綾香にとって、アルバムに挟まれた写真のようなものだった。当時のことを思い出し、懐かしむ。しかし執着があるわけではない。こういう砥石の気遣いに、素直に感謝できる。感謝できてよかったと、心から思う。

 車は小さな一軒家の前に停まった。真っ白でシンプルだが、窓の配置や玄関などのアクセントが、おしゃれな雰囲気を作っている。

 【私のセンスだよ。いいだろ?】

 綾香にできる精一杯の肯定は、頭を1センチ程度縦に振ることぐらいだった。砥石はその微妙な反応を目ざとくとらえ、とてもうれしそうに笑った。

 【さあ篠原、あがって。きっとびっくりするぞ】

 びっくりする、とは何だろう。見当は全くつかなかったが、綾香はなぜか、乾いた心に一滴の潤いを落とされたような気分になった。

 予感、のようなものが、あったのかもしれない。そういえば、と綾香は思い出す。昔は、あの人が学校のどこにいようとも、直感でどこにいるのかが分かっていた――

 【帰ったぞ】

 砥石の呼びかけに、奥の扉から1人の男が出てきた。


 世界に、色が戻る。


 目の前の情報を、一瞬たりとも漏らしてはいけない。


 網膜に焼き付けろ。そして判断しろ。


 久しぶりの仕事に、なまった脳は悲鳴をあげた。


 しかし、それはうれしい悲鳴だった。


 情報が足りない。処理したりない。


 もっとよく見ろ。もっとよく聞け。もっとよく嗅げ。今すぐその身体に触れろ。


 もっと記憶を探れ。もっと価値観を思い出せ。もっと感情を湧き上がらせろ。今すぐその呼び名を、口にしろ。








 「五十嵐、先輩……?」

「やあ篠原さん。僕がいなくて、寂しかっただろ?」


 忘れもしない、3月16日のことだった。


     ◇◆◇◆◇


 砥石が時計を解析していく中で、突然背後に裕介が現れた。それが先日のことだった。

 【仮釈放が近かったからな。ドッキリのつもりで、内緒にしていたんだ、篠原には】

「ドッキリなんてもんじゃないですよ」

 裕介のほうと言えば、誰にも観測されなくなり、存在するかもあいまいになって、そんな中でどうにか指輪を使って綾香のもとへ行けないかと試行錯誤を繰り返していたらしい。

 「ようは誰かしらに観測さえしてもらえれば、僕の存在の可能性は収束して、生き返れるはずだったんだ。いろんな可能性どうしを指輪の力で入れ替えて、いつか僕が生きている可能性が篠原さんのいる世界と重なるのを待っていたんだ」

「手当たり次第ですか……」

「おかげで3年近くかかっちゃったけどね」

 逆に言えば、3年ですんだのは奇跡のようなものだった。数百年、下手すれば千年以上かかったっておかしくない。

 「そういう奇跡が、たくさん起きましたね」

 砥石が持っていた時計。何度時間をやり直しても、変わらず存在し続けた裕介。砥石の傍で観測され、その日が仮釈放の間近だった、偶然、奇跡。

 【誰にも観測されていない事象は、多数の可能性の重ね合わせか……。だとすれば、観測しとき、1つに収束するとき、その事象を決定しているのは、一体誰なんだろうな】

「そんなの」

「明らかじゃないですか」

 砥石の独白に、裕介と綾香は声をそろえる。

 【何? 2人とも、分かっているのか?】

「ええ。私に時計を渡した会長ではない会長、本物の会長に時計を持っている違和感を感じさせなかった張本人」

「僕の精神世界に会長の姿で現れ、正体不明の影に僕たちの様子を観測させて、時計と指輪を作った張本人」

 首をかしげる砥石に、しかし2人は何も答えない。意味ありげに、同じ方向を見て笑うだけだ。


     僕とあなたの方を見て、笑うだけだ。




Fin

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

指輪と時計、彼と彼女 MIDy @midy9969nect

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ