第56話 月下美人
現実と隔絶した世界が、眼前に広がっている。
お伽話のような日々を暮らしていた二人から見ても、薄闇の中に浮かび上がる朱色の鳥居は、目を奪われるほど幻想的だった。
鳥居の向こう側には、天まで昇る階段が続いている。夜の滑走路に並ぶ誘導灯を思わせる橙色の狐火が、階段の両側で上下に揺れながら、一番上まで連なっていた。
この世とあの世の境と言われる鳥居を見上げる二つの顔は、これ以上ないほど晴れやかである。二度と離れることがないように、しっかりと手を繋ぎ、この世の境をくぐろうとしていた。
背後では、カヤノツチが浮かぬ顔で、悲壮感を伴う二つの後ろ姿を見つめている。
その時、パラディの遠吠えが暗夜に響いた。
「…………ひゃあ!」
ふいに電撃をくらったかのように、カヤノツチが短く叫んで、パラディの背の上で跳ね上がる。
深々とした静寂に支配された天地を、真っ二つに裂かんとする悲痛な叫びだった。
カヤノツチが顔を引きつらせ、甲高い声を上げる。
「し、静かにせんか! わしらは神域に足を踏み入れておるのじゃぞ!」
どちらかと言えば寡黙なパラディ。その潤んだ瞳に何を写したというのだろう。
本筋に入る前に、ほんの少し時間をさかのぼることにする。
時刻は真夜中。
約束の日を迎え、カヤノツチはジーンと二人して、支度中の百合子が登場するのを待っていた。すっかり片付けられた居間では、ジーンが思いつめた表情で黙り込んでいる。
自由気ままな生活の象徴だったスウェットを脱ぎ、元の白い死神の装束を纏っていた。
アモルとスペースが姿を一度も現さなかったことが気になっている。今夜は何かが起きそうな気がしてならない。
葛藤を抱えたジーンの横顔は、生来の眩さも手伝い、溜息がこぼれるほど艶めかしい。
会話のない時間が幾ばくか過ぎた後、ジーンは口をゆっくりと開いた。
「カヤノツチ様」
名前を呼ばれた精霊は、ソファの肘掛を撫でてみたり、体を揺らして弾力を楽しんだり落ち着きがない。
「なんじゃ? わしは忙しい」
「――百合子から何か受け取っていませんか?」
ピタリとカヤノツチは動きを止めた。
「……何か、とは?」
「蓋に龍が8の字を模様した小さな瓶です」
「ああ……あれか」
「その小瓶、お返しいただけませんか? 本来、誰もが勝手に使って良いものではありません」
ジーンは一度、寝室の方を振り向いた。隣の部屋にいる女には聞かれたくないらしい。
「どいつもこいつも……断って正解じゃったわ」
カヤノツチは着物の袖の中に両手を隠し、腕組みしてふんぞり返る。
「最初に言うておくが、小瓶に関して、あの小娘は無関係じゃ。わしが知る限りは、な」
ジーンは眩しげに目を細めた。
「では、誰が?」
「誰って、ほれ、
「アモル、ですか?」
「自分の兄をなんだと思うておるのじゃ……ま、正解だが」
ジーンは、カヤノツチの毒づいた人物像を聞いて、すぐに誰のことかピンと来た自分に苦笑した。
「ともかく……そやつはお
「ハハハ……それは失礼いたしました。兄が不躾なことを……で、いつのことです?」
「数日ほど前の晩じゃったかのう。ふらっと公園に現れおった。一つ褒めてやるなら、冥府名物らしいが、もらった土産の菓子は甘くて美味かったぞ」
カヤノツチが夢中になって食したという菓子は、神父が冥府の大都市ニゲルウルブスで成功させた事業の一つ、チョコレートのことだろう。
今では押しも押されもせぬ、冥府に行ったら行くべき名店として、神父が立ち上げた菓子専門店で人気のチョコレートがあるのだ。
神父が初めて作った試作品は、本当に甘くて舌がとろけた。欠片を口の中に含んだ時の衝撃を、ジーンは回想してクスっと笑った。
「……何がおかしい?」
「いえ、ちょっと思い出してしまって」
本題に戻そう。
アモルがジーン一人の救済を企てたという話は、想定の範囲内だった。ただ、ジーンが警戒していた展開とは少し違う。
パンタシアンが送りこまれた時、こっそり小瓶を百合子に渡した可能性が十分に考えられる。アモルは百合子の良心を利用し、間接的にフランマの行使を狙っているのでは?
そうジーンは予想していた。
「話を戻しますが、アモルが持参したという小瓶は、どうなったのですか?」
カヤノツチは片眉を上げ、不愉快そうに睨み上げる。
「わしを巻き込むな、と怒鳴って、突き返してやった」
「つまり、お手元に媚薬はない、と」
「くどい。わしは持っておらん」
アモルが絡んでいると睨んだことは正しかった。
百合子は無関係なのか? と問われたら疑問が残る。彼女がジーンの未来に乾杯したい、と言ったのは、どういう意味だったのだろうか。
「分かりました。信じます……では」
身に覚えのない悪事を詰問されているようで、カヤノツチは怒りを通り過ぎ、ジーンの謎解きに正直うんざりしている。
「まだあるのか! まったく、お前たちは、わしに何を求めておるのじゃ!」
「最後の質問です」
「……申せ」
「百合子から何か頼まれたことはありませんか?」
「あるとも」
そう言って、カヤノツチは隣にあったクッションを胸に抱えると、上目遣いに答えた。
「先日、わしとパラディが日取りの件をお
「もちろん。その晩、僕は何かある、と睨んでましたから」
「ふん、あの帰り際は大変じゃったのだぞ? あやつめ、わしの着物を引っ張ってのう。しつこくて驚いたわ」
武士は食わねど
そんな古い諺を
大事でないことを祈りながら、ジーンの心に水を打ったような静けさが広がった。
「あの娘、
ジーンはぎゅっと目を閉じると、天を仰いだ。高まる心臓を沈めるように、ふうぅとゆっくりと呼吸を試みる。
肩の力が抜け、心が軽くなった。
そして、一層愛おしく感じた。
「わしは賢い
心に巣食っていた、もやもやが晴れていくのを感じる。百合子がジーンの未来に乾杯したい、と言ったのは、言葉の綾だったのだろう、とジーンは結論づけた。
「つまり、わしは潔白じゃ」
「お騒がせいたしました」
「すっきりした顔しおって。というか、もう時間ではないか。あの娘はまだか?」
カヤノツチのぼやきを見計らったように、寝室の照明スイッチが切られる音がした。
音の方へ目を向けると、百合子が衣摺れの音と一緒に、暗がりから寝室の戸口に現れた。
「お待たせしました」
恥ずかしそうにうつむく、白いレースに包まれた百合子は、夜に一度だけ咲くと言われる、月の加護を受けた一輪の月下美人のように可憐だった。
百合子が両手で抱えた黒引きの振袖に、カヤノツチの視線が注がれている。
「その、手にある衣は?」
「我が家に受け継がれている婚礼衣装です」
予め答えをインプットされた人形のように、百合子の返答は棒読みだった。
顔を上げることも、ままならないのは、ジーンから反応がないからだ。ほんの少しの自信と、自虐的な自己判定が行き来する。
「準備は整ったな。では、参ろうか。これにて
カヤノツチはソファの上を
引きずる裾に注意しながら、百合子がジーンに静々と歩み寄る。顔を上げるのが空恐ろしくなり、自然と表情の陰りが濃くなっていく。
床に落とした視線と、白いドレスシューズがぶつかった。百合子は立ち止まり、激しく波打つ不安に一人慌てる。
うつむいたまま最後の一歩を踏み出した瞬間、つまさきで裾を踏んでしまった。バランスを崩し、上半身が倒れそうになると、死神の両腕が伸びてきた。
ゆっくりと上げた瞼の先には、
「行こうか」
「ええ、行きましょう」
いつも答えは目の前にあった。ジーンはいつだって、押し寄せるような切なさ、そして何物にも代えられない喜びの二つは、表裏一体であることを思い出させてくれる。
感じずにはいられない高揚感が交差し、互いの視線が溶け合っていく。
「すまんがのう……ここには、わしもおるんじゃが……」
二人の間で、カヤノツチは頬を赤く染めた。
「うっれしそうな顔をしおって。むかつくのう」
現世で聞く最後のぼやきを合図に、ジーンが「では参りましょうか」とにっこりと笑うと、片腕に百合子を抱えたまま、高らかに指を鳴らした。
「いきなりか!」
調子外れのカヤノツチの叫びと共に、三人と魔獣はカグツチが待つ、東京で一番高い山へと消えた。
誰も戻ってくることのない家の中は、永遠の沈黙がしんしんと暗い床に降り積もり始める。使い込まれたミシンの上に置かれた一通の手紙だけが、百合子がここに生きた証だと叫んでいた。
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