愛終
ある執行者の廃業
指の一本も動かせぬ疲労、そして痛みに耐え切れず、果たして意識を失った三堂香菜代が再び――奇跡的に覚醒した時、彼女は通い慣れた「海沿いの小屋」の中で立ち尽くしていた。
つい数瞬前まで土と草木と血の臭いに囲まれた香菜代は、唐突に嗅いだ潮の香りに驚き、ヨロヨロとその場で蹲ってしまった。止まらぬ全身の震え、「何事も無く生えている右腕」……状況の流転が余りに速く――。
悪心に目を閉じ、黙して震えが止むのを待った。
私は任務を遂行したんだ。私は野口孝行と――阿桑田ユリカを……。だから私は帰って来た。良いじゃない、帰って来られて本当に良かった、良かったの、良かった……。
香菜代がようやく立ち上がれたのは、「元の世界」に帰還してから三〇分後の事である。屋内の真ん中に置かれた粗末なテーブルに目をやった。分厚い封筒が二封、彼女をジッと見つめているようだった。
徐に中身を検める香菜代。数えるのが億劫になる程の……大量の一万円札がはち切れんばかりに詰められていた。
以前の彼女なら「当然の報酬だ」と、鼻歌混じりに勘定を始めたものだが、しかしながら――。
二封の封筒を手に取り、香菜代は小屋を出た。穏やかに寄せる波打ち際まで歩いて行くと……力の限りに封筒を海に投げ捨てた。
パシャン、と弱々しい水音を立て沈んでいく金の「軽さ」を鼻で嗤い、香菜代は小屋の方を振り返る事も無く……足早に去って行く。
帰路の途中、香菜代は駅前の書店で「就職情報誌」を一冊購入した。
その後、海沿いの小屋に香菜代が訪れた事は一度も無い。
「最後の任務」から一ヶ月後、彼女は食品工場の事務員として働き始め、その一年後に男性事務員と入籍。程無くして息子を三人産むと、それから五八年後に病に冒され、死亡した。
息子夫婦と夫、孫達に囲まれ逝った彼女だが、「昔の仕事」について口を開く事は無かった。
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