第9話
ある村で、涸れた井戸に水を注ぐ男がいた。村民は彼を嗤い、誹った。彼らは知らなかった。涸れた井戸の中で、乾きに苦しむイモリがいた事を。男は知らなかった。思い付きで助けたイモリは、土着の豊穣神の擬態であった事を。
――神と結ばれた男(メルニィ教聖典第三章二節より)――
亡きキティーナと暮らしていた頃、孝行は彼女から肯定され続ける日々を過ごしていた。その実、キティーナが彼に対して不満を抱く事は「最後の巨獣化」まで無かったが……。
愛と許容のみを与えられた孝行は、無意識の内に――愛するが故の否定を欲していた。
当然ながら、愛する者から否定をされて心地良くなる人間はいない。だが心情とは全く矛盾したもので、ぬるま湯に浸かり続けた後は、逆に熱い湯を求める傾向を見せる。
貴方は素晴らしい、何もかもが正しくて愛おしい……そう言いながらキティーナは孝行を求め、湧き出る愛情の全てを注ぎ込んだ。孝行も彼女の性格を熟知していたし、それを拒む事は無かった。
二人で手を繋ぎ、川に流れる落葉を見やった時、ふと孝行は思うのだった。
そう言えば、キティーナは俺に不満は無いのだろうか? と。
事ある毎に「貴方のここが気に入らない」と突かれれば、誰しもが不快感を露わにして耳を塞ぐが、滅多に言わない、もしくは言わなそうな相手から「貴方のここが嫌いだ」と告げられれば――。
非常な威力を以てして、対象を蝕んでいく。
自分の事を信仰すらしているだろうユリカから、「嫌いなところ」を告げられるその衝撃は……孝行の聴力を一瞬だけ落とす程だった。
「……何だって?」
「聞こえませんでしたか……もう一度言いますよ。話し合いの場で口を噤み、鈍感になってしまうところが――私は嫌いだと言っているんです」
押さば退け、退かば押せ――古来より伝わる恋愛の戦術を、しかしながら会得する者は少なく、同時にそれは「要求される技量と胆力」の高次元さを意味する。
古臭い諺、埃を被った格言の秘められた輝きに……気付き活かす者だけが、必然の勝利へと向かって行くのだ。
「孝行……勘違いしないでくださいね。好きだから嫌いだと言っているんです。分かってくれますか? 好きだ好きだと言い続ける人を、私は……」
信用出来ません。
またしてもユリカは明言を避けた。信用ならない人物は、ユリカではなくキティーナだ――と、孝行自身の回答を以て自覚させる為である。
「……きっと孝行は、キティーナさんと、そういう関係だったのではありませんか? 否定はしません、しませんが……私はそれを理想像とは思いません。不満点があれば、理論的に話し合い、解決へと向かうのが長続きするのでは? 一人の人間同士だから、どうしても衝突は避けられませんもの」
ここでユリカは孝行を見つめ、優しく微笑んだ。
孝行の不満点は鞭であり、これから提示する「未来」は飴であった。
「喧嘩する程仲が良い、って言いますよね。あれですよ。不満点を惜しげも無く言い合い、最後には円満解決……究極だと思いません? ストレスも不安も無く、健全で健康的な関係……私は孝行と、そんな関係を築きたいんです」
最初に相手を挫き、すぐに寄り添って介助してやるという手法に長けたユリカ。最早洗脳と呼べるその手法に、孝行は強い新鮮さを覚えていた。
「……今すぐ、キティーナさんを忘れてだなんて言いません。悔しいけど、孝行が愛したという事実は変わらないから。でも……いつの日か、孝行の心に空いた穴を、私で埋めたいな……って」
照れたような笑顔を彼に向け、ユリカはもう一度――手を差し伸べた。
「孝行。一緒に生きましょう。一杯愛し合って、一杯喧嘩して……最期は、どちらが先かは分からないけど、手を繋ぐんです。『色々あったけど、ありがとう』って笑い合って……少しだけ泣いて。それって……とても幸せだと思うんです」
ユラリと照明の火が揺れた。口を閉ざしていた孝行が……低い声で言った
「……お前は、どうして……俺を好きになったんだ? お前は一体……俺にとって何なんだ……?」
クスクスとユリカは笑い、「さぁ」と悪戯っぽく返した。
「貴方が決めてください」
毛布の下から伸びる手を――孝行が果たして掴んだのは、もう五時間も経てば太陽が昇る頃だった。
野口孝行は甘い
異世界の地で、常に命を狙われ続ける男は今……新たな拠り所へと潜り込む。
浮気者、愚か者と罵る事が出来るのは、その身を「無縁土葬場」に埋められた――彼女だけであろう。当然彼女は声を発しない、何故なら既に
二人の生者を覆うには、宿の毛布は小さかった。
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