第5話

 そこは、幻想と暴力とが共存する不可思議な空間だった。


 傷付いたフゴールの木は、辺りに誘因粉と呼ばれる発光体を撒き散らす。木肌を傷付けるのは、一体の暴れ狂う巨獣である。


 鉈のような爪で、刀剣のような牙で、丸太のような四肢を以てして、巨獣は自身よりも小さな男を仕留めようと、持てる膂力の限りを尽くす。しかし男は混迷し、叫び声を上げながらも……暴風の如き「殺傷行為」を躱す為に、一層フゴールの木が代わりに傷付き、発光体がフワフワと飛び交う。


 口端が大きく裂け上がり、そこから撒き散らされる唾液は、そのまま巨獣の執念、執着を示唆していた。


 お願いします、死んでください――男を噛み砕かんと開かれた口から、不意に鳴き出された「轟吼」は、そう伝えたかったのかもしれない。


 五本目のフゴールの木がなぎ倒された時、男は「話を聞け、キティーナ」と叫んだ。狩猟刀と呼ばれる、よく鍛えられた鎧すらも両断出来る刀剣を、しかし抜刀する事無く……彼は言葉の持つ「力」を信じた。


 いつだって、彼らは言葉を用いて話し合ったり、積み上げた愛の多寡を伝え合ったり、今後の行く末を語り合った。如何に通じ合った仲の男女にも、やはり「言葉」は必要であった。耳が聞こえなければ手話を、目が見えなければ触覚を使い、己の思いを伝えなければ、果たして円満な未来は築けない。


 男は「言葉」が秘める可能性を信じたかった。恐らくは――言葉を理解出来ない凶獣へと成り果てた「妻」が、が起きて、殺傷行為を止めるだろうと踏んだのである。


 当然、男の願いは唯の「そうなって欲しい」という願望に過ぎず、それを聞き入れる神がいるはずも無く……彼は迫り来る攻撃を避け続ける羽目となった。


 兵士が来る、このまま共倒れになる、頼むから止めてくれ――矢継ぎ早に飛び出す男の願いは、巨獣の垂れた耳に入り、右から左に流れていく。


 致し方無し――男は泣く泣く狩猟刀を抜き、せめて「元の姿に戻った時」を考えて、自身の頭を潰そうと振り下ろされた、の右腕を斬り付けた。一瞬だけ、「ギャッ」と悲痛そうに叫ぶ獣は、痛みを忘れようとしたのか、更に暴れ狂った。


 妻を斬ってしまった。結果として……意味も無い攻撃を、彼女に与えてしまった。男は手に残る感触を、生涯忘れる事は無いだろうと思った。


 金色に輝く獣毛の隙間から、スルスルと流れる血を認めた瞬間、男の額から汗が垂れ落ち、胸が支えるような悪心に襲われた。


 再び、巨獣は慟哭するように吼えた。キラキラと漂う発光体の一つ一つに、かつて男と女が過ごした「時間」が封じ込まれているようだった。発光体は彼らの動きに合わせて上下左右と動き、最後は地面に着地して輝きを失う。地面に含まれる有機物に反応する為に起きるその現象は、アトラシアの人々は「時止まり」と呼んで儚んだ。


 久方ぶりに……静寂が訪れた。水が蒸発するような音を発し、ギリギリと牙を食い縛る巨獣の赤黒い目に、小さな水滴が浮かんだ。男はそれに気付く事無く、ゆっくりと歩み寄る「限界」に怯えていた。


 男は――ある種の定めを受け入れた。




 こうして、俺達の旅は終わるんだ。今まで人を殺し、殺し、殺し……そんな人間に幸福を味わう権利など、ある訳も無かったんだ……。




 辛うじて巨獣の接近を許さぬよう、構えていた狩猟刀を――男は手放した。コン、と軽やかな音を立てて横たわる刀は、持ち主を最後まで守護したいのか、切っ先を「害敵」に向けていた。


 ベキリ、と枝を踏み折る音がした。黄金の獣毛に包まれた妻が……「死」を受け入れた男の方へ、着実に接近する。


 一〇メートル、九メートル、八メートル……男は互いの間合いを目測で測り、しかしそれも無意味だと考え、五メートルを切った頃から目を閉じた。


 興奮した獣の体温を感じ取った時、男は一筋の涙を流し、微笑みながら言った。


「キティーナ。頭からやってくれ。最期の……我が儘だ――」


 巨獣は大きな口を開け、上から覆い被さるように――男の頭を噛み砕こうとした。


 せめて、最期は安楽に……男の身体が選択したのは、瞬時の「失神」であった。赤い獣の口内を認めた時、彼はプッツリと意識を失ったのだ。


 それ故――男はこの後に起きた全てを知らない。


 不意を突いて飛来したロケット弾が、巨獣の脇腹に着弾し……絶命を免れた事を、彼は何も知らない。

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