第5話

 癒えない身体を無理矢理に起こし、それからユリカは幾度もレガルディアに土下座した。


 声調は聞き取り辛い程に上擦り、涙と鼻水が美しい相貌をふやかしてしまう。しかし彼女は厭わなかった。懇願に懇願を重ね、何度も額をシーツに擦り付けた。


「お願いします、お願いします! もう手立てが無いのです、本当に何も無いんです! 心を読んでください、私、嘘なんて吐いていません!」


 果たしてユリカは言葉を発さず、ただ子供のように泣き喚いた。


 彼女にとって落涙は、「仕事」を遂行する上での効率的な武器であった。必要があればいつでも泣けたし、いつまでも嗚咽する事が可能だったが――。


 肉体的な痛みからではなく、「泣きたいから」といった精神的苦痛によって自然と涙が浮かび、零れ落ちるのは……ほぼ記憶に無かった。


 ゲホゲホと咳き込み、更に落涙を続けるユリカ。


 すぐにでも孝行の元へ行きたい。そして想いを伝えたい……純粋な願望が彼女の両手に力を送り、不自由な右手までもがシーツを握り締めていた。


「うっ、うぅ……」


 そして……ユリカが今まで殺めた人間の顔が、欺いた人間の表情が――走馬灯のように脳内を駆け巡る。快楽によるものではなく、彼女にとってはではあったが、それでも他者の命を奪うという心理的歪ストレスが、堰を切ったようにユリカを侵食していく。


 五秒後、彼女は吐瀉物をベッドの上に撒き散らした。飛散する脳漿を目撃しても、輝く臓腑を踏み締めても……不快感が露呈する事は無かった。


 露呈する事が無かった――だけである。長年に渡って溜め込んだ不快感は決して解消される事は有り得ない。


 全ては孝行の為だから……この言葉を免罪符として振りかざし、非人道的行為に明け暮れた女の姿がこれだった。


 アトラシアの英雄、パディン翁に痛めつけられてもなお、日の目に曝される事を嫌った不快感が、「自らの半生を語る」という至極簡単な行為によって……。


 阿桑田ユリカの心奥深くから、吐瀉物を纏って現れたのである。彼女は今、誤魔化し続けた「か弱い心」に敗北したも同義であった。


 敗北者ユリカを見つめ……レガルディアは小さく溜息を吐くと、蹲る彼女をソッと引き起こした。


「どきなよ、あんたの出したもので汚れるよ」


 グッタリとユリカは枕に項垂れ、ただ潤んだ目でレガルディアを見上げている。


「話してくれてありがとね、ユリカさん。……寝床を掃除するから、ほら、こっちに移れる?」


 赤子のように抱き抱えられ、ユリカは丸椅子に座らされた。レガルディアはテキパキとシーツを取り払い、水を張っている木桶に付け込んだ。


「……懐かしいな。私ね、お婆ちゃんがいたんだけど、随分と前に死んじゃったんだ。お婆ちゃんも魔女だったから、かなり長生きしたんだけどね……晩年は、こんな感じで食べたものを吐いちゃうし、排泄物はそのまま出しちゃうし……だから、こういうのは慣れているんだよね」


 レガルディアは努めて場を明るくしようと笑ってみせたが、一方のユリカは廃人の如き様相であった。


 しばらくの間……屋内はシーツを洗う音だけが響く。五度目の濯ぎ洗いを終えたレガルディアは、梁に渡した紐へシーツを干し、「ユリカさん」と項垂れるユリカの方を見やった。


「外へ出てみないかい? 大丈夫、誰もいないし……それと、安心しなよ――」


 泥は取ってあげるからさ。


 レガルディアはヨロヨロと立ち上がるユリカの手を引き、玄関の扉を開けた。

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