第8話

 逃げろ、逃げてくれ――村民に避難を促すパウドの叫びは、それから七六回続いた。七七回目以降は蚊の鳴くような声が広い居間に聞こえるだけで、到底村民に伝わる事は無かった。


 村民命板に記された名前がただ一人分――パウドの名前――を残し、輝きを失ったのは、幼いムグルが自殺を図った時から丁度一時間後の事である。


 ユリカは全ての家を回り、戸棚や台所に置かれた薬瓶を回収した。集めた瓶を村長宅の前に並べ、以前にユリカが使用していた言語――日本語の短文を、木の枝で地面に書いた。




 拈華微笑、忌まれる女よ、悟られよ。




 並べた薬瓶、散見される悲劇……全てはですよ――ユリカは呟き、木の枝を恭しく短文の横に置いた。


 ふと、パウドの様子を開け放たれた扉から見やった。自身の名前だけが光る石版の前で、涎を垂らして虚脱する彼の姿を認めた。


 ユリカは中に入り、彼の自由を奪っている縄を解いてやると、「立てますか」と優しく声を掛け、ゆっくりと安楽椅子に座らせた。


「それでは、パウドさん。健やかに」


 返答は無い。台所に吊されていた布でパウドの口を拭いてやり、ユリカはオーフェン村での「仕事」を終えた。


「……そうだ、お腹が減りましたね」


 ユリカは先程訪れた家を再度訪問する。


「ご免ください、ご飯を頂けますか」


 返事は無い。本来なら応対するはずの家主が床に斃れているからだ。ユリカは「失礼します」と一礼し、に家主が食べようしていた料理を食べ始めた。


「ふんふん……ちょっと塩加減が足りないかな。でも……孝行なら丁度良いって言うかもしれませんね……。味は……煮染めに似ていますね」


 ユリカはやがて大きな布を見付け、それを拝借して食卓の上に広げた。吊されている干し肉や魚、パンのような食べ物を次々と布に置いた。


「よし……と。それじゃあすいませんけど、ちょっとお借りしますね」


 四方を手程の長さに結び、更に横の結び目同士を結合させ――あっと言う間に布は即席のバッグへと変貌した。


「風呂敷文化は、この世界にもあるのでしょうかね?」


 腕に掛かる重みを感じつつ、ユリカは思い悩んだ。


 風呂敷に他人の食料を包み、持ち帰る――彼女が以前暮らしていた世界、その内の日本という国に伝わる伝統に照らせば、まさに「泥棒」そのものであった。


 家主が留守の間に忍び込んだ不届き者は、まず最初に大きな布――風呂敷を探す。見付けた風呂敷を広げ、次に金目の物品を捜索するのだが……。


 実は彼女が生を享ける二五〇年前、同じ血を持つ人間——要するに「先祖」もまた、闇夜に紛れて民家の間を駆け抜け、大風呂敷に財宝を詰め込んだのである。


 現在、阿桑田ユリカは泥棒に必須な「物品捜索の目」「無遠慮の極み」を会得していた。


「これぐらいで良いでしょうかねぇ……よいしょっと……」


 ユリカの背後でリュックサックが揺れる。「当面必要な物品」「異世界にて交渉事に使えそうな珍品」、そして「孝行に渡す贈呈品」が所狭しと詰められていた。


「お邪魔致しました」


 玄関の辺りで振り返り、物言わぬ家主に一礼するユリカは、そのまま村の出口まで歩いて行くと、すっかりと静かになった小村の不幸さを嘆いた。


「……はぁ、可哀想なオーフェン村です……」


 村人達を殺害し、村長の精神を破壊したのは紛れも無く彼女であったが……。


、もしくは運命は違っていたのに……」


 ユリカの瞳が潤い――一小粒の涙を顎先に垂らした。


 彼女は心底、オーフェン村の悲劇を悲しんでいたのである。この村が「終わって」しまった原因は、自分を引き寄せた女――キティーナ――にある……ユリカは確信していた。

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