第16話 空を飛ぶ魚
開演ぎりぎりの時間に入ると、席はほとんど埋まっていた。
浜北水族館名物、シャチのショー。
クマノミに夢中となっていたから、午前の部には行けなかった。
それで、午後の部へ。
「うわっ、人だらけですね!」
「これは厳しいな…」
まさにネットの評判通りだった。
扇形となっている観客席は国内最大規模の一万人を収容可能だという。
しかし、それでも空席は見当たらなかった。
予想はしていたけれど、それにしても、ここまでとは。
「席、ありますかね?」
僕が座る分には、問題ない。
しかし、問題なのは小晴の方だった。
小晴の姿は周りに見えていない訳で、客は見えない人のために席を空けてはくれない。
席に多少の余裕があれば僕が二席分確保することもできたが、満席となると小晴の席は完全消滅してしまう。
「あ、あそこに二席空いてます!」
「おっ、ついてるな」
小晴の示す通り、中央の狭い席が二席並んで、空いていた。
すみませんと頭を下げながら、狭い通路を抜けて僕らはその席に座った。
誰かに隣が取られてしまわないか、目で周囲を牽制しながら。
どうやら運が良かったようで、僕と僕の隣だけを残してショーはまもなく開演した。
「わくわくです」
半透明になった小晴は、目を輝かせていた。
「なんか、僕も楽しみだ」
たぶん、僕も同じ目をしている。
黒の巨体が姿を現す度に観客席から歓声が上がった。
スウェットスーツを着たお兄さんの号令に合わせてシャチは大きく飛び上がる。
オスだというそのシャチは『俺を見ろ』と言わんばかりに姿を現したあと、大きな水しぶきと共に水中へと姿を消した。
その一連の流れの美しさに、思わず声が漏れてしまう。
「すっごい!」
「すげぇ…」
小晴のことを子供っぽいと言ったが、僕も十分子供だった。
でも、それでも良いと思ってしまうほど、そのショーに見とれていた。
純粋に今、目の前のことを楽しめなければ僕は人でないような気がする。
「すごいです。海の生き物も飛ぶことが出来るだなんて、思いもしませんでした」
目を丸くしてその様子に見とれる小晴。
小晴が純粋に喜んでくれたのが、嬉しかった。
「せっかく水中を潜れるのに、どうして飛ぶんだろうな」
素っ気なく言うと、小晴は笑った。
「きっと、知らない世界を見てみたかったんでしょうね」
「知らない世界?」
「そうです。今の私とおんなじです」
そうだ。意識しないと忘れてしまいそうになるが、小晴だって違う世界に生きているのだ。
「私、こちらの世界に来るのを本当に楽しみにしていたんです。一生に一度、雨を降らせるためにしかこちらへ降りることは出来ませんので」
シャチが尾びれで水面を叩き、観客席にも水が舞った。
それはまるで、雨を降らせているかのように。
「不思議だよな。僕にとっては普通の世界でしかないのに、小晴さんにとっては別の世界だなんて」
「住んでいる所が違えば、大体そんなもんじゃないですかね?」
それもそうだと思った。
僕は海外に行ったことはないけれど、テレビで見る海外の様子はどこか別世界のようだ。
「そう考えると、世界は広いな」
「まったくです」
水中に飛び込んだシャチはぐるりと水槽を周って、飼育員の元へと泳いでいく。
そうしてそのまま飼育員を身体の上に乗せて、再び水槽を泳ぎ始めた。
まるでサーフボードに乗っているかのように、飼育員はシャチと呼吸を合わせ、進んでいく。
得たいの知れない大きな生き物が繰り出す技のひとつひとつに、小晴は満足そうだった。
「祈吏さん」
半透明な、その身体で、小晴は小さく僕の名を呼んだ。
その声があまりにも小さくて、僕は聞き逃しそうになった。
「なんだ?」
「ありがとうございます」
僕にしか見えていないけれど、小晴は深々と頭を下げる。
顔を上げ、僕と視線が合うと、小晴はやはりニコっと笑う。
小声で言ったのは、ショーを邪魔したくなかったからだろうか、それとも恥ずかしかったのだろうか。
どちらにせよ、僕に感謝される筋合いなどなかった。むしろ、
「こちらこそ」
僕の方こそ感謝しなければいけないと思った。
小晴のおかげで、なんだか楽しく過ごすことが出来ているような気がする。
「雨の精霊…か」
僕には一つ、気になることがあった。
もし、精霊が雨を降らせることに成功したら、その後はどうなってしまうのだろうか。
最初に聞いておくべきだった。
一緒に過ごした時が長くなればなるほど、そのことを聞けなくなるような気がした。
ショーを見て喜ぶ小晴の姿を見ていることが楽しかった。
何より眩しい笑顔だと思った。
同時に、それを失いたくないとさえ、思う。
「水族館、来てよかっただろ?」
だけど、先のことを考えても仕方ないから、僕は今現在を聞いてみた。
今、この瞬間の夢野小晴が一体何を思っているのか、知りたくなった。
「私…」
うつむきざまに、小晴は満面の笑みを浮かべて、言った。
「私、今すっごく楽しいです」
全てが報われた瞬間だった。
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