第12話 よく晴れた日のグラウンド
天気は良いのに、風が強い。
生い茂った木々が風に吹かれて音を成し、時折ビル風が強まると、笛の鳴るような音が断続的に聞こえてくる。
そんな風の中、僕は数年振りに中学へと向かう通学路を歩いていた。
通学路と言っても、家から住宅街を抜ければすぐに中学校が見える訳で、大した距離はない。
僕は高校も徒歩圏内の場所に通っているから、そこに特別感を抱くことはなかった。地元であるが故に、中学卒業後もこの道を通ることは何度かあった。
しかし、僕がこの道を使って中学へ行こうとしたことは、卒業以来一度もなかった。
高校入学前の春休みで肩を怪我をした。それ以降、過去の自分と今の自分を重ねるのが辛くて、中学へは近づきたくもなかったのだ。
それが、どうして今、この雨の精霊とやらを連れて中学校へ向かっているだろうか。
不思議だった。
今まで避けていた自分が、素直に中学へ向かうことが出来ていることにも、不思議だった。
今まで躊躇っていたのは一体なんだったのだろうか。
そこまで考えて、僕は気が付いた。
自分の意思でないから、行けるのだ。
小晴が行きたいと話すから、僕はそれに同行しているだけ。
光夏の件でもそうだったが、自分一人で物事を解決しようだなんて難しいことなのかもしれない。
今さら、そんなことを考えながら歩く。
「あっ、あれですね?」
住宅地を過ぎると、白い校舎の一角が顔をのぞかせていた。
木々の合間から見える校舎の壁は随分と古くなっていて、所々コンクリートがはがれている。高校の新校舎と比べると、明らかに古く見劣りする。
だが、これはこれで、公立中学校らしくて良いと思った。登校中に校舎が見え始める角度。そして、決して綺麗とは言えない中学の校舎も。
何ひとつ変わらないから、思い出となるのではないだろうか。
正門側の入り口から、僕と小晴は校内へと侵入していった。
休日の校庭は一般開放されていて、街の住民ならいつでも入れるようになっていた。
「ここに来るのはいつ以来ですか?」
不意に小晴が聞いてくる。
「卒業以来だな。それ以降は近づいてすらいない」
そう言って、校庭を見渡した。
校庭の奥には野球部用のバックネットがあって、その少し前に小さな山が出来上がっている。あれが、この学校のマウンド。よく、あそこを慣らしていたもんだ。
「祈吏さんは野球部だったんですよね」
唐突に、小晴が言った。
「どうしてそれを?」
「部屋の中に、色々と賞状が置いてありましたので」
そうだった、と思い出す。
ボールが投げられなくなって、野球道具は押入れの奥にしまった。
昔の写真も、見るのが辛くて伏せてある。
だけど、過去の栄光を完全に捨てることは出来なくて、賞状だけは飾ってあった。
中途半端な状態であるから、過去を捨てることも受け入れることも出来ていない。
情けない話だ。
どうやら小晴には、その情けない部分を見られてしまっていたらしい。
「昔の話な。今はもう、やってない」
「アイオライトですか?」
「アイオライト?」
唐突に言われて戸惑った。
どこかで聞き覚えがあるような気がして、思い出す。
林さんの店で売っていた、見るに怪しい天然石か。
「お店の人が言ってたじゃないですか。過去を引きずるのではなく、アイオライトのように輝かないとって」
「よく覚えてるな」
確か、そんなことを言っていた。
「気になっていたんですよ」
「何がだ」
「祈吏さんのことです。光夏さんの件で、同じような経験をしたことがあると」
「口が滑ったな」
「それで、気が付いたんですよ。光夏さんが陸上で悩みを抱えていたように、祈吏さんにも何か同じことがあったんじゃないかなって。部屋を見て、賞状を見つけて。うっかりな私でも流石に気が付きました」
「だから、中学に行きたいなんて言いだしたのか」
人の夢や目標を叶える。それが使命である小晴の中で、僕の過去が引っかかっていたのかもしれない。
小晴にならば、話せると思った。
「今からちょうど一年くらい前のことだ。高校に入る前の春休みに、肩を怪我した」
何かを言われるのが嫌で、続ける。
「もう二度とボールを投げることは出来ないと言われて、僕は野球をすることが出来なくなったんだ。実際、右肩を上げただけで痛みが走る。だからもう、今はやってない。高校野球は知ってるか?」
「はい。高等学校で少し勉強しました。そういう文化があることは知っています」
「文化ね」
その言い方だと、天の世界には野球というスポーツ自体存在していないのだろう。
改まって、小晴に向き直る。
「僕にとって、その高校野球は…」
言いかけて、ふと気が付いた。
もしかして、小晴は僕にこの言葉を吐かせたかったのではないだろうか。
変に意識しているだけなのかもしれないが、小晴はこれを知りたかったのではないだろうか。
そう、僕にとって高校野球は…。
「夢だったんだ」
それは、数学のテストで満点を取ることよりも遥かに大きな、僕の抱いていた夢。
「どうしても叶えたい夢だった。憧れの舞台に、憧れの背番号を背負って出場すること。それが僕にとっての、夢や目標だった」
「それが今は出来なくなって、夢を探せずにいるのですね」
痛いところを突いてくる。
実際、その通りだった。
懐かしい中学のグラウンドに立って、僕は思う。
希望に満ち溢れていたあの頃とは違って、今の僕には何もないのだと。
ただ…。
「夢なんて、探して出てくるようなものじゃないんだ」
探して見つかるくらいなら、既に見つけている。
自分の中に湧き上がる何かが出てこないが故に、困っている。
僕の言葉に小晴は『確かにそうですね』と一言添えた。
「祈吏さん、言ってましたよね。夢なんか持っている方が珍しいって」
「ほんと、よく覚えてるな」
実際そうだと思う。
「夢なんてものは自然発生する訳じゃないし、誰もが必ず持っているわけじゃない。あくまで僕はラッキーだったんだ。幼い頃から高校野球に憧れていたから、こうして夢を持ち続けてこられた」
「私で言えば、雨を降らせることですかね」
「そうだろうな。生まれながらに使命を持っているんだから、それはそれで羨ましい」
「それもそれで、色々と大変なんですけどね」
グラウンドを眺めながらそう言った小晴の横顔は、それでもどこか、充実したようにも思える。
「後悔しているんですか?」
そうしてグラウンドを眺め続けながら、小晴は僕に問いかけた。
「怪我をして、もう野球が出来なくなったことに、祈吏さんは後悔しているんですか?」
「…………」
言われてみて、考える。
僕は後悔しているのだろうかと。
確かに、未練がないと言えば嘘になる。
高校野球を続けて、仲間と甲子園を目指したかった。
幼い頃にテレビで見ていたような、光り輝く背番号1。その背番号1を背負いながら、強豪相手に奮闘する姿を演じてみたくもあった。
あの日。
僕が交通事故に遭ってしまった、あの雨の降っていた日。
あの時雨が降らなければと思ったことは何度もある。
あの時、僕がスピードを緩めていればと自責の念に駆られることもある。
どうして僕だけが。
運がないと言えばそれまでで後悔したって仕方がないかもしれない。
しかし、どうして僕だけがこんな目に遭わねばならないのかと神に聞きたい時もあった。
それを、後悔と呼べるのかどうか。
「いや…」
違うだろう。
ほんの僅かだが、小晴と共に過ごしてきて分かったこともある。
「僕は別に、後悔しているわけじゃない」
高校野球に未練はあるが、それは別に本質的な問題ではないのだと、薄々気が付いていた。
光夏と、如月さんと、そして何より小晴の姿を見て、僕に必要なものが何か、気付かされていた。
問題は、今。現在。
高校野球という夢を失って、大きな目標を失って、目の前の小さな目標すらも立てられなくなっている今現在が問題なのだと。
「後悔とか、未練とか、そんなことは関係ないよ」
ただ、今の僕には。
「なにもないんだ」
ふと、感じていた。
僕の光夏に対する劣等感も、如月さんの姿が眩しく見えるのも、小晴が充実しているように感じるのも、今の自分になにもないからだ。
「後悔というより、失ったものに対するもどかしさに溢れているだと思う。僕が光夏や小晴さんを羨ましく思うように、僕が過去の僕を羨ましがっているだけ。だから、何もない今の僕に自信を持つことが出来ていなんだろう」
「そんなことはありません」
考えてから言った僕の言葉を遮って、小晴は鋭く言い放った。
「何もないなんて、そんなことはありませんよ」
目を閉じ、今度は小さな声で僕をなだめる。
「何を根拠に」
「私を助けてくれたからです」
そして、にっこりと笑った。
この子はまた、変なことを言う。
「あの状況で、小晴を放置する訳にもいかなかったじゃないか」
「それは、周りの人を笑顔にさせるのと何が違うんですか?」
小晴の声が、また明るくなる。
「私からしてみれば、祈吏さんにも小さな目標が沢山あるように見えます。きっと、祈吏さんが気付いていないだけで、決して『無』ではないはずです」
「それはそうかもしれないが…こう例えることだってできる。僕に何もないが故に、目の前のことに執着するしかない」
「それでいいじゃないですか」
難しく考えるなと言わんばかりに、小晴はあっさりと僕の言葉を切る。
「今を充実させていれば、きっと素晴らしい未来になります。一歩一歩前に進むことで、積み上げてきた道のりが出来るんです」
「そんなの、綺麗事だよ」
「でも、実践できることですよ」
なんとなく、小晴の言葉には説得力があった。
どうして小晴に説教されなければならない。
そう思うものの、反論することは出来ない。
小晴が僕の中学に行きたがったのは、きっとこれを言う為だろうと思った。
夢を叶えてやる存在として、僕の姿を放っておけなかったのだろう。
意思もなく、ただ小晴の決定に従っているだけの僕に、どこか不安を抱いていたのかもしれない。
まったく、馬鹿にしてくれる。
しかしこの時、僕は気が付いてしまった。
「綺麗事でもいいんです。祈吏さん」
心の内を話したのは、小晴が初めてだったことに。
両親は、僕の身に起こった事実を知っている。
光夏は、僕がどれだけ高校野球に憧れていたのかを知っている。
それでも、僕が今の心情を他人に話したことは今までなかった。
夢も目標も何も持たない自分がもどかしくて、それに嫌悪感さえ抱いていることも。
それを話す自分がまた情けないような気がして、誰にも話してこなかったのだ。
夢野小晴。
出会った時と印象は全く変わっていない。
いつも僕に微笑みかけてくるその姿は、美しいというよりも可愛いと思う。
この純粋無垢な少女が、雨を降らせる精霊だというのだから笑ってしまう。
僕にしか見えていないこの少女に、僕は胸の内を明かしてしまったというのか。
後悔はしていなかった。
むしろ、どこか安心しているようにさえ思えてくる。
「いいのか、それで」
おかしかった。
「いいんですよ」
今の自分を認められることが、一番情けないことだと思っていた。
それなのに、小晴にそう言われると、今の自分に対する嫌悪感が自然と薄らいでくる。
「ありがとう。それを言うために、小晴さんは…」
だから、それを気が付かせてくれた小晴に、素直な感謝を伝えるべきだと思った。
天然をやっているように見えて、人の気持ちを推し量って行動している小晴。
雨の精霊は、やっぱり凄い。
そう伝えようと、思ったのに。
「小晴さん…?」
突如、僕の隣で小晴がくらりと身体をよろめかした。
「小晴!」
そのまま倒れそうになった所を、僕は肩を抱き寄せてなんとか支えようと試みる。
だが、腕でしっかりと小晴を支えて、驚いた。
小晴の身体が、まるで熱を持っているかのように、とても熱い。
「なんでもないです。少し、くらっとしまして」
あはは、と僕の腕の中で、小晴は力なく笑う。
「いやいや、なんでもない訳ないだろ! 小晴さん、身体が…」
「な、なんでしょうね…。私たちの身体は丈夫ですから、病気に負けるはずがないんですけどね…」
そうは言うが、明らかに辛そうだった。
顔も段々と赤くなってきて、息苦しそうに肩で息を始めている。
「一度家に戻ろう。ふわふわの布団を使わせてあげるから、しばらく休んだ方がいい」
小晴の様子を見て、そう提案した。
しかし、小晴はふるふると首を振るばかりだった。
「私は平気です。平気ですから、もっと色んな所を見て回りたいです」
「気持ちは分かる。こうして一緒に過ごして、小晴さんが好奇心旺盛なことは十分に分かった。でもな、今ここで倒れられると僕が困る」
「祈吏さんに迷惑はかけたくないです。でも…」
小晴の姿は僕以外に見えていない。
それはつまり、何かが起こった時、僕以外に頼るべき人物がいないということだ。
警察も医療機関も、小晴の治療はしてくれない。
それに、精霊の治療だなんて、たとえ姿が見えた所で出来るかどうかも分からない。
「お手伝いなら、また一緒に手伝うから」
「…わかりました。残念です」
そう言いながら、小晴は僕の腕の中で目を閉じてしまった。
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