27.花の春、散るらん(七)

不思議だ。


音楽や香りは目に見えることはないのに、あのメロディーを耳にするたび、あの香りが届くたび、思い出も情景も鮮明によみがえる。



希望に満ちて歩みだした日も。


恋のためいきをもらした日も。


強い思いが叶わず涙した日も。


不器用だけど懸命で、甘酸っぱい青春の日々。


一瞬であの時に戻ることができる。



プロの演奏家でもないのにおこがましいけれど、ほんのちょっとだけでもそんなふうに。


わたしのピアノで誰かを思い出したり。


想いに寄り添ったり。


心に余韻が残るように、すぐそばで感じてもらえたらいいな。



だってわたしは楽師だから。


直接的な戦力にはなれない。



また明日もがんばろう、って。


せめて心の癒しや慰めになれば、それほどうれしいことはない。


ピアノの音色も、沈丁花の香りも、いつかそう思ってもらえる日が来るのかな?



「山南さん?」



最後の音が消えても、山南さんは目を閉じたままで。


呼びかけに反応はない。



「あの、山南さん…?」


「ああ!すまないね。つい、聞き入ってしまったんだ」



いつものようにニコリと笑った後、スッと表情を変え真顔になった。


何か、考えごと?



「これは、君がよく弾くピアノ曲は、欧米の伝統的な音楽なんだろう?」


「はい」


「譜面どおりではなく、もっと自由に、感性のままに弾いてみたいとは思わないのか?」


「たしかに最初は誰もが楽譜どおりに練習しますよ。先生に教わったとおりに」



クラシックでは楽譜に記されたことがすべてであって、演奏記号に忠実に、正しく弾くことはとても大事だ。


音符、休符の長さも、強弱も、和音も。


一音一音、音楽家がこう弾いてほしいと意図を持って作曲したのだから、わたしもそれは賛成だ。


だけど、それに縛られすぎては、音楽としてつまらない演奏だと感じてしまう人が多いと思う。


かといって逸脱しすぎてもダメ。


アドリブで自由に演奏できるイメージのあるジャズにだって、決まりごとはある。



「小さな音の表現ひとつでも、甘く囁く声のように感じる人もいれば、寄せては返すさざ波のようだと思う人もいる。曲調によっては荘厳な寺院の静寂だと言う人もいるだろうし、星がさやかにきらめくような印象を持つ人もいるかもしれません」


「文学的で美しい表現だね」


「音の強弱や速度の変化、音と音との間の取り方、どう感じてどう表現するかはそれぞれ違います」


「行間を読むというようなことに似ているのか」


「そうかもしれませんね。同じ曲を弾いても、人によって全然違う演奏になるんですよ」


「ほう、私は君のピアノしか聞いたことがないが、確かになぁ。落語や長唄だってそうだもんな」


「この作曲家の音楽は、楽譜に書いてあることだけを守って正確に弾いても、上手に聴こえないんです」


「情緒も風情も伝わらない。つまり、曲の良さが引き立たないということか」


「もちろん基本ができていて、楽譜を正確に弾ける技術があるのは大前提の話ですけどね」



努力と技術に加えて、芸術性やセンスというものも必要なのだろう。



「楽譜どおりに弾くだけでは曲は完成しない、ということなのかもな…」



フゥ~と深いため息をついて、天井を仰ぐ。


そして、ポツリと。



「…君が羨ましいよ」


「どこがです?」


「君は考え方が柔軟だ。正直に心を伝え、自分の意思に従って行動できる」


「それなら山南さんにだってできると思うけど?」


「これがね、思っているよりも意外と難しいんだ」


「正直に伝えて、相手を傷つけてしまうこともあります」


「それも真心。相手を思ってのことだろう。嘘はないと分かる」



立ち上がり戸を開けると、ピョンと裸足のまま青空の下に出た。



「ああ、沈丁花がいい香りだね」



山南さんがめずらしい。


沖田さんや左之助兄ちゃんみたいなことをするなんて。



「それにね」


「はい?」


「君は、何にも縛られず自由だ」



首をかしげるわたしを見て、ニコッと笑った。



「どうしたんですか?何かあったんですか?」


「何も」



何でもないわけないとは思ったけれど、それ以上聞き難い雰囲気。


柔和な笑みの奥に、少しだけ切ないような、憂いを含んだような。


無理して明るく振る舞っている感じがして。


ひとりで考え込みたい時もあるだろうし…


誰かに話をするのがつらい日だってある。



「ありがとう。私のために時間を割いてくれて」


「お礼なんか言わないでください」


「君のピアノは、ときめく心に優しく、心地よく響く音色だ」


「お世辞でもうれしいです」


「お世辞じゃないさ。本当にそう思うんだ。また弾いてくれるかい?」


「はい、いつでもご贔屓に!」


「ほら、子供たちが待っているよ。もう行きなさい」



いつもみたいに、もっとしつこく聞けばよかった。


どうしてそうしなかったんだろう。


様子が違うことは明らかだったのに。


そうすれば、あんなことは起きなかったかもしれない。


いつもそばにいたのに、なぜ救うことができなかったの…



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