♯365 忘却


 ――時間が少し巻き戻り、クレスが目覚めたあの時。


『…………君は、誰だい?』


 その第一声で、フィオナとメルティルだけが正しく事を理解した。

 だからフィオナは答えた。


「……わたしは、フィオナです。あなたの、お嫁さんなんですよ」

「……フィオナ? ……俺の、嫁…………?」


 その答えに、しかしクレスは釈然としない様子だった。

 それは他の者も同様である。


「ハァ? オイオイ何言ってやがんだクレス。嫁を忘れるとか、また死にかけて寝ぼけてんのか?」

「……クーちゃん?」


 ヴァーンとエステルの呼びかけに、クレスが反応する。


「……ヴァーン? それに、エステル……か?」

「おお、なんだやっぱ寝ぼけてただけじゃねぇか。オイいいかクレス。いくら寝ぼけてようが自分の女を忘れるとか最悪のクソムーブだぜ。より最悪なのはベッドの中で他の女と間違えることだがな。はっはっは!」

「……自分の、女……? さっきから、一体何を……」

「……まさか……。クーちゃん。この子が誰だかわかる?」


 何かを察したらしいエステルがレナの後ろに立ち、レナのことを示した。

 クレスはレナと視線を合わせ、それから首を横に振る。


「……いや。知らない子だが……」

「……!!」


 その反応に、レナが怯えるような顔をした。それはやがて怒りの表情へ変わり、クレスへと詰め寄る。


「……なに、なにそれ。なにいってるのクレス!」

「うわっ。な、なぜ怒るんだ? 君は、えっ?」


 レナに迫られて困惑するクレス。ヴァーンが苦笑しながら言う。


「オイオイ。だからしっかりしろやクレス。お前がそんな寝ぼけてんのは珍しいぞ。そんな、まるで全部忘れちまったみてぇなよ――」


 ヴァーンの言葉で、一瞬にして空気が重たくなる。

 気付いたヴァーンが、表情をこわばらせた。


「……オイクレス。んじゃこいつらはどうだ? ついさっきまでヤベェバトルやってたヤツらだぞ! さすがに忘れてるはずねぇよなぁ!?」


 そしてエリシアやニーナの方を指さす。クレスは眉をひそめた。


「ヴァーンが何を言っているのかよくわからないが、見覚えはない、な。それより、ここはどこなんだ? 俺はなぜ……」

「……クレスくん。まさか、記憶が……」

「えぇ~~~ウソウソウソでしょ!? はじめて出来たカレシが一日持たずに記憶ソーシツ!? なにそれあたしの強運どこいっちゃったのー!?」


 切なげにつぶやくエリシアと、頭を抱えてウサ耳を揺らすニーナ。リィリィも二人のそばでおろおろとしていた。


 呆然と周囲を確認していたクレスは、そこで突然信じられないものを見るように目を見張る。


 彼の視線の先にいたのは――


「お前は……お前は、まさか……!」


 ゆっくりと起き上がるクレス。まだ足のふらつく彼をフィオナが支えたが、クレスは隣のフィオナには目もくれずにその相手だけを見た。


「馬鹿な……先ほど、剣を交えっ、そして、そして俺が――!」


 クレスは、歯を食いしばってその名を呼んだ。


「魔王メルティルッ! 何故! 何故お前がまだ生きて――ぐっ!」

「クレスさんっ」

「離れてくれ! ヤツがまだ生きているのなら、俺は戦わなくてはいけない! そのためにこの剣を――なっ」


 地面に膝を突いたクレスは、それでも戦う意志を示し自らの剣を探した。だが無残にも折れたその剣を見て愕然とする。


「せ、聖剣が……!? な、何故……くっ! だが、それでも、それでも俺は――!」

「クレスさん、もういいんです。メルティルさんは敵じゃないんですよ」

「何を言っているんだ! 俺は、こいつを倒すために……!」


 なお戦うために立ち上がろうとするクレス。


 対するメルティルは――無言。

 その表情は先ほどとはまるで違う。ひどく退屈そうな、欠片ほどの興味もない冷たい瞳でクレスを見下ろしていた。


 ヴァーンが額に手をつく。


「……オイオイオイ! こいつはどういうこったよ? クレスの野郎おかしいぜ! オレとエステル、それに魔王のことだけは覚えてやがるのに他のヤツはしらねぇってか!? どんな記憶喪失だよ!?」

「何故私とこの男、それに魔王だけを……? ――っ!」


 思案するエステルがハッと気付いたように顔を上げる。


「離魂した影響……? フィオナちゃんと結婚した……いえ、フィオナちゃんがクーちゃんへ《結魂式》を使った段階からの記憶を失っている、ということなの……?」

『!!』


 ヴァーンとレナ、ニーナが揃って驚愕し、既に察していたらしいエリシアやリィリィは複雑そうな顔をする。


 メルティルが「ふん」とつまらなさそうに口を開く。


「その通りだ。この馬鹿は先ほどまでアルトメリアの娘によって命を保っていたが、繋がりを失った今、己の肉体と生命力のみで欠けた魂を再構成している。以前とは比べるべくもない脆弱な生命力だが、ゆえに弱った魂に負荷を掛ける心配もない。代わりに、アルトメリアの娘との関わりで得た他のすべてを失ったのだ」


 彼女の説明に、ヴァーンたちは言葉もなくなっていた。

 そんな中でも、フィオナはただ一人クレスの身体を支えていた。以前と変わらぬ甲斐甲斐しさで。


 レナがつぶやく。


「……フィオナママ? ねぇ、なんでそんななの? そんな、ふつうなの?」

「レナちゃん……」

「クレスが、レナたちのこと忘れちゃったんだよ? どうして、ふつうにしてるの!」


 レナはフィオナの服を掴み、何度も引っ張りながら声を荒げた。


「そうだぜフィオナちゃん! こいつ、フィオナちゃんのことを!」

「……フィオナちゃん。まさか、わかっていたの……?」


 エステルの問いに、フィオナは小さくうなずいた。


「なんとなくの、予感、ですが……」

「マジかよ!? んじゃあフィオナちゃんはわかっててこいつと――ックショウ! クレスのヤツを救えたところでこれじゃあよ!」

「……ずっと」


 エステルがぽつりと尋ねた。

 そして切り出す。


「ずっと、気になっていたことがあるの。フィオナちゃんは、なぜ《結魂式》の魔術を使えたの? 禁忌として知られながらも、どんな魔術書にも決して記載されていない幻の魔術を」

「……それは」


 フィオナは少し戸惑った様子で、悩みながら話した。


「実は……わたしにも、よくわかっていないんです」

「え? そ、それはどういうこと?」

「わたしも、《結魂式》の存在は知っていました。けれどもちろん、どこかの魔術書で読んだ覚えや、教えてもらった記憶もありません。けれど……」


 フィオナがクレスの顔を見る。


「あのとき、クレスさんを絶対に助けなきゃって思ったとき。そうすればいいんだ・・・・・・・・・って思ったんです。自然と、頭に浮かんできたんです。まるで、最初から使い方をわかっていたみたいに……」

「最初、から? そんなことが……ありえる、のかしら」


 エステルもまた戸惑う。

 そしてまったく話についていけないクレスこそ、終始当惑したままだった。


 そこにメルティルが口を挟む。


「因子だ」

「……え?」


 と聞き返したフィオナに、メルティルがさらに話す。


「かつて妾が聖都セントマリアでその術を生み出したとき、妾には今ほどの魔力はなかった。それでも十分すぎるほどだがな。だが、念には念を押してだ。たまたまその場に居合わせたアルトメリアの娘の魔力を借り受けた」

「アルトメリアの……えっ?」

「ふん。当然お前ではない。そのとき娘の中に妾の魔力が流れ込んだ。それは細胞で形質転換を起こし魔術因子マナシードとして遺伝情報に刻まれ、素養として表れることがある」

「魔術の……種……。それじゃあ、ひょっとしてメルティルさんが魔力を借りたのは、わたしの――」


 フィオナの想像はおそらく当たっていた。そうでなければ、フィオナに使えるはずがないからだ。

 メルティルは腕を組みながら不満げに語る。


「妾にはあの欠陥魔術を残す意図などなかったが、阿呆な人間どもが勝手に書物を作り広め、禁忌として伝えるようになった。使える者が現れるなどとは思わなかったが……ふん。趣味の悪い命知らずな女のおかげで貴様は生き長らえているのだ。せいぜい感謝しろ、馬鹿め」

「なっ……」


 馬鹿呼ばわりされながら見下ろされ、クレスは意味がわからず混乱していた。誰も目の前の魔王を敵視せず、そのような空気もなく、クレスはこの場で自分だけがおかしい・・・・・・・・・ことを感じ取って動けなくなっていた。


「――ねぇ」


 つぶやいたのは、レナ。


「そんなの、どうだっていいでしょ」

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