♯202 お背中流します!

 朝からの手合わせを済ませたクレスたちは、汗を流すため開店直後の温泉施設へと向かった。

 この施設が完成したおかげで、朝から晩まで手間なく風呂へ入ることが出来るようになったのは都民たちにとってとかくありがたいものである。しかもただの湯ではなく温泉だ。今では聖女の加護を受けた聖なる湯――『セントマリア温泉』としての名が広まり、街を行き来する行商隊キャラバンにも人気が出てきている。

 この早い時間に利用しているのは夜中に働く者、また朝の早い老人たちがメインであるが、そう数は多くないため、シノも昨日と同じようにあまり緊張することはなかったようだ。


「シノさん、本日もお背中流しますねっ!」

「え? あ、うん。あ、ありがとね」


 女湯の洗い場。銀髪を後ろで結び、泡立てたタオルを持ったフィオナが甲斐甲斐しくシノの世話を焼いていた。人見知りのシノも、フィオナの前でだけはどこか気を許した表情をするようになり、今も背中を洗われてほっこりと気持ちよさそうな顔をしている。フィオナはそのことが嬉しかった。


「……ん。フィオナさんは、いつもクレスにこういうことをしてあげてるん?」

「ふふ、そうですね。クレスさんのお世話は、私の大切な役目ですから♪ 毎日がとっても楽しくて、幸せです!」

「立派なお嫁さんじゃねぇ……。こんな人を貰えて、あの子は幸せ者よ」


 目を閉じたままそうつぶやくシノ。フィオナは「えへへ」とご機嫌に手を動かす。


「……それにしても、あの子は本当に変わったね」

「え?」


 不意の言葉に、フィオナの手が止まる。どういう意味かとフィオナが言葉を待つと、シノは続きを口にした。


「うちが初めてクレスと出会ったとき、まず感じたのは、“危うい”ということじゃった」

「危うい……ですか?」

「そうよ」


 小さくうなずくシノ。

 彼女は、その頃を思い出すかのように一度深い呼吸をして語った。


「昨日は話せんかったけど……あの子は、盲目的じゃった。世界を救うため――亡き母の想いに応えるため、そのために強くなることしか見えていなかったんよ。あの子は、目的のためになら自分の命を簡単に投げ出せてしまう。だからこそ『勇者』の才覚があったんじゃろうけど……それは、とても危ないことなんよ」

「……そう、ですね」

「本当は、クレスを弟子にするつもりなんてなかった。でもね、このままじゃこの子は近いうちに必ず命を落とす。うちにはそれがわかってしまったから、クレスを突き放すことが出来なかった。この子の信念は折れない。なら、せめて少しでも生き延びる可能性を上げてやりたいと思ったんよ。なんて、そうは思っていても、ろくな教えは出来んかったけどね」


 苦笑いを浮かべるシノ。


 フィオナにも、シノの言いたいことがよくわかった。


 クレスは真っ直ぐな人間だ。

 フィオナが知る限り、最も“正しい”心を持つ人間だろう。

 だからこそ『勇者』となり、だからこそ強くなれた。

 しかし、その正しい心を持つがゆえにクレスは自身を省みず、常に人々を、仲間を守るため先頭に立ち、戦い続けた。仲間を置いてたった一人で魔王との決戦に望み、力を失っていてもなお一人で聖都を守ろうとした。皆の命を守るため、自身の命を危険にさらし続けてきた。


「シノさんのお気持ち、よく、わかります。そんなクレスさんだから、私は、クレスさんを傍で支えたいと……彼を守りたいと思いました」

「ん、そうなんじゃね。フィオナさんがいなかったら、きっとあの子は変わらなかった。ずっと一人で無理を押し通し続けて、あんな風に笑えるようになることもなく、命を落としていたはずよ。だから、あの子が死んだと聞いたときは驚きと共に諦観していたんじゃ。ああ、ついにかって。それがまさか……聖都に来てみたら、こんなことになっているなんてね。これも全部、フィオナさんのおかげじゃ」

「シ、シノさん。そんな、わ、わたしは大したことはなにもっ」

「うぅん」


 シノが顔だけで振り返り、泡まみれになっていたフィオナの片手を握った。


「少しの間でも、“視て”いればわかるんよ。あの子を変えたのは、間違いなくあなたじゃ」

「……シノさん」

「まさか、あの子がこんなにぶち可愛らしい娘さんを貰うなんてね。フィオナさん、これからもあの子をお願いね。こんなお嫁さんがいてくれるんじゃから、もう、うちが心配することなんて何もないんよ」


 シノは、穏やかな顔で微笑んでいた。


「って、な、なんだか気恥ずかしいね。フィオナさんの前じゃと、口下手なうちでも不思議と話せるようになってしまうんよ。これも、フィオナさんのお力なんじゃろうか」


 照れ笑いを浮かべながら、気持ちを落ち着かせるように自身の髪を触るシノ。


 フィオナは、シノの不器用な優しさを感じていた。

 シノは人見知りかもしれないが、心の内では、ずっとクレスの身を案じていたのだろう。今回聖都に訪れたのも、すべてはクレスのためだ。彼女は一人で旅を続けながらも、たった一人の弟子のことを気に掛け、人知れぬところから守ってきた。クレスよりもずっと小さなこの背中で、シノもまた戦い続けてきたのだろう。


 この人がいてくれたからこそ、自分はまたクレスと再会することが出来た。今の生活を得ることが出来た。


 強くそう感じたフィオナは、感謝と共にシノの手を握り返した。


「……感謝するのは、わたしの方ですよ」

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