北高竜王部

北高竜王部1

                       聖歴2026年4月23日(木)


 迷宮の暗がりから“それ”は姿を現した。


 グレーの体表に太い尾、筋肉質な身体を太い四本の足で支える。

 ネズミ。そう呼ばれる動物だ。


 しかし、その大きさは小型犬ほどもある。ネズミとしては非常識な大きさだ。

 そして、その赤く輝く瞳は人間に対する敵意と憎悪に溢れていた。


 モンスター――動物とモンスターを分かつのは人間に対する害意があるかどうかと一般的に言われている。その基準に照らし合わせればこのネズミは間違いなくモンスターだ。

 ネズミだからといって全く油断はできない。大きな肉体と太い四肢、なによりその敵意が一行に緊張感をもたらせる。


 慎一郎は実習用の杖を強く握る。相手を殴るには心許ないが、この杖は使用者の魔法を少しであるが増幅させる力がある。

 とはいえ、それだけで目の前の状況に楽観的になれるはずもない。冷や汗が背中を伝う。隣に立つ徹が生唾を飲み込んだ音が聞こえた。


「に、逃げるっていうのはどうだ?」

 徹の提案に答えたのはメリュジーヌ。

『難しいな。人間の速力は普通のネズミにも劣る。ましてこの大きさじゃ。どれほど速く走れるか想像もつかん』


「くそ、やるしかないのか……。慎一郎、俺が敵を引きつけるから、その間に呪文を――」

「くるぞ!」


 慎一郎がそう叫ぶのと同時にネズミが襲いかかってきた。速い。慎一郎の目はネズミの姿は見えず、ただ黒い塊が飛んでくるのを捕らえるので精一杯だった。


「うわっ……!」

 反射的に身体を半身引いてネズミの体当たりをかわす。しかしバランスを崩して尻餅をついてしまった。


『シンイチロウ!』


「くそっ、こいつめ……!」

 徹はそう言ってぶつぶつと何かつぶやき始めた。


『シンイチロウ、避けるのじゃ!』


「うわっ!」

 どうやらネズミは足を止めた慎一郎に狙いを定めたようだ。おそるべき速度で何度も慎一郎に体当たりを仕掛けてくる。そのたびに呪文の詠唱が中断される。


「ぐっ……!」


『シンイチロウ! 立ち上がらねばなぶり殺しになるぞ!』

「わ、わかってる! けど……」

 ネズミの攻撃から身を守るのに精一杯で、とても立ち上がれない。


『くっ、この時代の人間がここまで弱いとは……。平和な世の弊害か! ええい、もどかしい!』


 メリュジーヌは慎一郎の視界に何か武器になりそうなものはないか探すが、生憎と石ころのひとつも落ちていない。


 ――キシャァァァァァァァッ……!

 ネズミが突進してきた。ネズミは飛び上がり、慎一郎の首もとを狙う。


『シンイチロウ! 前じゃ!』

「うわっ!」


 間一髪でネズミをかわす。直後、耳元でガチィンという乾いた音がした。鼠の歯が噛み合わさった音だ。避けきれなかったら今頃はあの鋭い歯に喉を噛みきられていただろう。

 慎一郎の背筋が寒くなる。


 ネズミは軽やかに着地し、再び身体をこちらに向ける。当たれば必殺の攻撃だ。当たるまで何度でも繰り返すつもりなのかもしれない。


 ――シャァァァァァァァァッ……!

 ネズミは人間の何がそんなに憎いのかと言いたくなるほどに憎悪を振りまいている。決して生かして逃がさないという決意すらも見て取れる。


「慎一郎! 伏せろ!」

 その言葉に反射的に身を低くした。瞬間――


「炎よ!」


 慎一郎の頭上を野球のボールほどの大きさの火の玉が通り過ぎていったかと思うと、今にも走り出さんとしていたネズミの頭に正面から命中した。


 ――ギャァァァァァァ……!

 瞬間、ネズミの前身が激しく燃え上がり、ネズミはごろごろと転がった。しかし炎は一向に消える様子はない。魔術の火はあらかじめ込められた魔力が尽きるか、それ以上の対抗魔術を施さない限り消えることはない。


「今だ!」

 徹がさらに追い打ちの呪文を唱え始める。慎一郎も立ち上がり、それにあわせるように同じ呪文を唱え始める。


 ネズミは熱と酸欠によってその動きを鈍らせていた。急いで呪文を唱える必要も、避けられる危険性もない。ただ必殺の魔法を唱えればよい。


「炎よ!」「炎よ!」

 ふたりの呪文は同時に完成した。


 ――ガァァ……ァァ……ァ……。

 追撃の火球が、ネズミに命中した。ネズミは炎に包まれながらよたよたと数歩歩いた後、ばたりと倒れ、二、三度痙攣した後、永遠に動かなくなった。


「なんとか、勝てた……」

「あ、あれ……?」


 ネズミを倒して安堵する徹と魔法が不発だった慎一郎。ふたりの表情は対極的だった。




「まあ、そう落ち込むなって。初めてモンスターと戦ったんだ。結果的にネズミを引きつけてもらった俺ならともかく、ネズミの攻撃を受けまくったお前が魔法を失敗しても不思議じゃないって」


 夕暮れの体育館脇を歩きながら徹は慎一郎を慰めた。しかし慰められた慎一郎は憮然とした表情だ。


『そうじゃぞ。魔法なぞ使えずとも大成した人間はたくさんおる』

 メリュジーヌの慰めは慰めになっていなかったが。


 ネズミを倒したあと、三人は時間も時間なので一旦迷宮から外に出ることにした。

 迷宮を出て、木々の間を抜けて、体育館裏まで歩いて出る。すでに下校時間は過ぎており、部活動の賑わいはもちろん、人っ子一人いない。


 慎一郎の頭の中は失敗した魔法のことでいっぱいだった。

 あの魔法自体は初歩的なもので、普通なら失敗するようなものではない。例えるなら小学校低学年の漢字を書き間違えたような恥辱感があった。たとえ、徹が言ったとおりネズミとの戦闘中であったとしても、だ。


「よし、とりあえず今後の対策を練るためにファミレスで対策会議だ」


『おぉ! それは良い案じゃ! 今日、わしは天丼とやらを食ってみたい。ステーキ丼でも良いぞ!』

 相変わらずメリュジーヌは食べることしか考えていないようだ。


 そんなことを話しながら体育館の横を通り抜けて、校庭横の道へ曲がったとき――


「……!」

 角の向こうからやってきた小柄な人影と慎一郎がぶつかった。小柄な人影はその衝撃で体勢を崩し、尻餅をつきそうになる。


「おっと」

 とっさに慎一郎の手が伸び、ぶつかった相手を支える。


「あ、ありがとう……です……」

 慎一郎の肩ほどもない身長、ふわふわのくせ毛に大きな眼鏡の女子生徒。掴んでいる二の腕は驚くほど細いのに出るところはしっかりと出ていやでもそこに目が行ってしまう。


「いえ、こちらこそ。よそ見をしていました。すいません」

 女子生徒の制服のリボンを見て上級生だと気がついた慎一郎は丁寧に謝罪する。よく見ると、掴んでいる二の腕には黄色い腕章が巻かれていた。そこには『風紀委員』と書かれている。


「それより、お怪我はありませんか?」

「大丈夫……です。そ、それより……」

 女子生徒は慎一郎の手から離れ、居住まいを正す。


「下校時刻……」

 そう言ったきり、顔を背けてしまった。


「え?」

「下校して……ください……です……」

 下向いてもじもじしながら、今にも消え入りそうな声で何か言っていたが、それだけは何とか判別できた。


「はいはーい。すぐに下校しますー。それじゃあね、遙佳はるかちゃん」

「…………」

 徹の答えに満足したのか、小さな上級生はそのまま校舎の方へと走っていった。最後まで慎一郎と目を合わせることはなかった。


「知り合いなのか?」

岡田遙佳おかだはるか。2年C組、風紀委員長。ちっちゃくてかわいい先輩って有名人だぜ?」

「いや、それってお前の中でだけだろう……」

 やっぱりな、という感想が浮かび上がってくる。


「それよりもあのおっぱい、見たか? あんなにちっちゃいのにあのおっぱい! 最高だな!」

『むむ! やはり人間の雄は胸が大きい方がいいのか!?』

 そう言ったメリュジーヌ、よく見ると隣りに立っているメリュジーヌの映像は胸がこれまでより五割増しくらいになっているような気が。


「いやー、ジーヌは前の方がいいと思うな」

『そ、そうなのか……? シンイチロウはどう思うか?』

「お、おれ? いや……おれはどっちでも……」

 どっちでもいいと言おうとしたが、メリュジーヌがじろりと睨んでいるような気がしたので慌てて言葉を飲み込む。


「おれも今までの方がいいと思うぞ。よく似合ってる」

『ほほう、そうかそうか。お主らがそう言うのであれば、特別にこのままにしてやっても良いぞ。ふははははは!』


 よくわからないが、とりあえず上機嫌になったのでよしとして、三人は下校時間の過ぎた校門を通り抜けて、いつものファミレスへと向かった。メリュジーヌの胸の大きさは元に戻っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る