Side storys:Ⅱ

Awakening ~獣の目覚め(前編)

 夢を見ていた……。


 は自分が夢を見ている事を認識していた。いわゆる明晰夢という奴だ。最早数えるのも億劫な程に繰り返し見ている悪夢……。


 だがそうと解っていながら、彼はこの夢から脱する手段を知らなかった。そして夢と解っていながら、まるで心臓を握り潰されるような恐怖が彼を支配していた。


 彼はどことも知れない闇の中を必死に逃げていた。後ろから彼を追ってくるモノがいる。後ろから聞こえる、地を蹴り疾駆する足音、そして……の唸り声と息遣いがどんどん大きくなる。


 あれ・・に追い付かれたら終わりだ。彼にはその確信があった。獣に追い付かれた時……彼は彼でなくなる・・・・・・……。


 自己喪失の恐怖から彼は一心不乱に逃げ続ける。しかし無情にも獣の気配は彼の間近まで迫り、そして――




「――はっ!?」


 そして彼――リチャードはベッドの上で飛び起きた。周囲を見渡し……ホゥっと息をつく。時刻はまだ夜中のようだ。隣では妻が何も知らぬ気に安眠を貪っている。


 リチャードは顔を顰めた。この所かなり頻繁だ。明らかに良くない予兆だ。何とか、この衝動・・を抑える術を見つけなければならない。それもなるべく早急にだ。


 そうしなければ、今の生活全てを失う事になる。最悪、彼自身や愛する家族の命も……



****



 朝、ダイニングで手早く朝食を採っていると、テレビのニュースで地方裁判所の判事殺害事件の情報が流れていた。


 現在リチャードが担当している・・・・・・事件だ。中々進まない捜査状況にコメンテーターが皮肉を言っている。


(全く……ただ文句を言うだけの楽な仕事だな)


 腸詰めとスクランブルエッグを胃に押し込むと、食後のコーヒーを飲む時間も惜しいとばかりにテーブルを立って身支度を整える。妻のジーンがそんなリチャードにジャケットを手渡しながら未練がましい様子になる。


「あなた、今日も遅くなるの?」


「ああ。こうしてニュースでもせっつかれているからな。君も奴さんを早く逮捕できるように祈っててくれ」


 そう言ってリチャードは妻の額にキスする。と、その横でけたたましく階段を駆け下りる音。


「おい、ジェシー! はしたないぞ! もう中学生なんだから、そろそろ自覚を持って……」


「はあ!? うっせーし、クソ親父! モタモタしてっとバスに遅れるんだよ! あ、お袋、つー訳で朝メシいらねぇから!」 


「ちょ、ちょっと、ジェシー!? 顔くらい洗って行きなさい!」


 ジーンが慌てたように声を掛ける暇もあればこそ、慌ただしく玄関を開け放って外に飛び出していく少女。


 娘のジェシカだ。元からやんちゃ・・・・だったが、中学に上がってから増々行儀が悪くなっている。


 全く誰に似たのやら。リチャードは溜息を吐いた。



 慌ただしい朝のワンシーンだが、彼の大切な日常でもあった。絶対に壊す訳にはいかない。リチャードは改めて決意するのだった。



****



「警部補、例の……ドラン女史がまた来てますよ。警部補に会わせろって……」


 リチャードの職場……ロサンゼルス市警。部下の刑事であるジョン・ストックトンが、若干言い難そうな様子で取り次ぎに来た。


「またか……」


 リチャードは嘆息する。ジョンが言い難そうにしている理由は見当が付く。ここで下手に言い訳などすると、余計にそれっぽく・・・・・見えてしまうので敢えて何も言わない。


 気乗りしない相手だが、会わない訳には行かない。ここで無視すると受付で延々とリチャードの名を呼ばわれる可能性がある。そうなれば職場中にあらぬ噂が立てられてしまう。


「少し席を外す。お前とマットはその間に資料を纏めておいてくれ。ああ、それとこの間入った新人……ロドリゲスにも何か仕事を与えておいてやれ」


「了解しました。こっちは任せて下さい」


 ジョンの返事を背にオフィスを出るが、リチャードが去った後、無責任な噂話に精を出すだろう事は解っていた。





「カトリーヌ。ここには……いや、私の前に二度と現れないでくれと言っただろう。君にも、君達・・にももうウンザリだ。私は忙しいんだ」


「そうは行かないわ、リチャード・マイヤーズ。私達には義務・・があるのよ。人狼・・の被害から秘密裏に人々を守るという義務が、ね」


 1階の応接ブースで、リチャードは客人・・のカトリーヌ・ドランと向き合っていた。40絡みのフランス人女性だ。リチャードと同年代で、それがまた無責任な噂を加速させる要因になる。


 だがリチャードも、そしてカトリーヌも当然そのような関係・・・・・・・ではなく、むしろそれとは真逆の冷え切った関係と言えた。


 リチャードは流暢な英語で喋るカトリーヌの言葉に、拳をギュッと握り締める。


「10年くらい前にも同じ事を言っていただろう。だが御覧の通り私には何の問題も無い。勿論これからもだ。解ったら早々にお引き取り頂こう。署員達が君の事を、私の愛人か何かだと勘違いしている。君もこれ以上そんな噂を広めたくないだろう?」


 カトリーヌは一瞬鼻白んだが、すぐに態勢を立て直した。


「残念だけど、あなたから目を離す事は出来ないわ。あなたの血の濃さ・・・・は……並外れている。まさに突然変異といって良いレベルよ。もし獣の血・・・があなたを支配した時、途轍もない災厄が世に放たれる事になる。それだけは……何としても防がなければならない」


「……ッ!」


 リチャードは無意識の内に、シャツの自分の心臓のある辺りを握り締めていた。最近よく見る悪夢が脳裏をよぎる。



「私は……獣になったりはしない。私は人間だ」



 気付けば自分に言い聞かせるような口調になっていた。カトリーヌはかぶりを振る。


「いいえ……あなたは人間ではない。いつ暴発するとも解らない危険な火種よ。私が最近になって再びあなたの元に姿を現したのはね……この街で嫌な『気』の高まりを感じたからよ」


「気、だって?」


「そう……。この街でこんな『陰の気』を発する存在を、私達はあなたしか知らない。あなた自身も感じているんじゃないかしら? 自身の内なる衝動・・・・・を……。何か予兆が出始めているはずよ」


「……ッ!!」


 リチャードは再度息を呑む。その様子にカトリーヌは目を細める。


「……どうやら心当たりがあるようね」


「……! いや、無い。何も無い」


「悪い事は言わないわ。今すぐここを辞めて、私達と一緒に来なさい。あなたはかなり危険な状態にあるわ」


「君達と……? どうせ誰にも知られない施設にでも閉じ込め隔離する気だろう? いや、それとも人知れず消す気か?」


どっちになるか・・・・・・・はあなた次第よ。あなたはもう人間社会にいていい存在じゃないの」


「……帰れ」


「このままだと無辜の人々や、あなたの愛する家族にも被害が――」


「失せろ! 今すぐにだっ!!」


 テーブルを叩きつけて立ち上がりながら、出口を指差す。大きな音がロビーにまで響き、その場にいた人々が何事かとブースの方を見やる。


 必要以上に注目を浴びるのは本意ではないらしく、カトリーヌは溜息を吐いて席を立った。


「そう……残念だわ。本当に残念……」


「消えろ!」


 カトリーヌが退散した後も、しばらく興奮が収まらないリチャードであった。




 その後もカトリーヌとのやり取りが頭に残って、その日は禄に仕事にならなかった。こんな精神状態では捜査に差し障りがある。捜査が若干行き詰まっている事もあって、今日は早めに帰らせてもらう事にした。


 妻や娘の顔を見て心を落ち着けたかった。足早に署を出ると、入り口前で何人かの制服警官が話していた。その内の1人がリチャードに気付いて声を掛けてきた。


「あ……マイヤーズ警部補! 今日はもう上がられるんですか?」


 若い女性の警官だった。靡くような金色の髪が眩しい。


「ん? ああ、ギブソン巡査じゃないか。そうなんだ。実は連日の捜査で少し精神的に参っていてね。今日は一晩休ませてもらう事にしたんだよ」


「ええ!? だ、大丈夫なんですか!? 警部補はこのLAPDになくてはならない人なんですから、しっかりお休みになって下さい!」


 どうやら本気で言っているらしい女性巡査――ローラ・ギブソンの姿に、リチャードは苦笑する。


「はは、そう言ってくれるのは君だけだな。ありがとう。少し元気が出たよ」


 そう返事をするとローラは顔を赤らめた。


「お、お役に立てたなら良かったです。私は誰が何と言おうと警部補の事尊敬してますから、ゆっくり休んで、これからも頑張って下さい!」


「ああ、ありがとう、ギブソン巡査。君も頑張るんだぞ?」


「は、はい、警部補!」


 ローラと手を振って別れる。他の同僚達に何やら冷やかされているローラの姿に再び苦笑しつつ、リチャードは帰路に着いた。



****



 家路の途中、異変・・は起きた。


 人通りの少ない通りに差し掛かった時だった。リチャードの車に横づけするように、一台のバイクが停まった。随分近いなと思って何気なく顔を向けたリチャードはギョッとした。フルフェイスで顔を覆ったライダーの右手に拳銃・・が握られていた。先端にサイレンサーのような物が取り付けられていた。


「――ッ!?」


 リチャードは咄嗟に車を急発進させようとするが、ライダーが発砲する方が早かった。消音器によって、ピシュッと小さな乾いた音だけが鳴る。銃弾は車の窓を貫通し、リチャードの首筋辺りに命中した。


「か……!」


 咄嗟に首元を押さえる。血は出ていない。代わりに急速に意識が遠のいていく感覚……。


(麻酔弾か……! くそ、やら、れ……)


 タイミングがタイミングだ。心当たりは一つしかない。まさかいきなりこんな強硬手段を取ってくるとは完全に想定外であった。激しい後悔と共に、リチャードの意識は闇に沈んでいった……

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