黒い海 part.6

遥か昔に、忘れた記憶だった。

それは、アルズにとっては思い出すことさえも困難なはずの、摩耗して、今にも崩れそうなほど腐敗した記憶。

黒い海に沈んでいきながら、彼は自分の体に抱きついている少女を引き寄せ、しっかりと抱きしめた。

過去、自分がしてもらったように。

顔も思い出せない、その誰かに包み込まれるように。

少年は少女を体全体で抱いた。



激しく咳と嘔吐を繰り返し、飲み込んでしまったドロドロの海水を吐き出す。

鼻や口から液体を垂れ流しているシュルディアを、少年は無理矢理に防波堤の上に引き上げた。

そして荒く息をつきながら、鉄骨と鉄骨の隙間……身を隠せる場所に彼女を引きずっていき、押し込む。


「ゼェ……! ゼェ……!」


血走った目を周囲に走らせ、少年は頭をガリガリと爪でかきむしった。

頭が痛い。

割れるようだ。

たまらず膝をついて痙攣しているかのように肩を揺らす。

彼の体に数十も食い込んだ鉄の釘が、傷口がざわざわと振動して地面に落ちていく。

たちまちのうちに傷はふさがったが、少年は段々とひどくなる頭痛を抑えることが出来ずに歯を強く噛み締めた。

頭を抱えてうずくまってしまった少年に、臭い海水を必死に吐き出していたシュルディアが、掠れた声をかけた。


「頭……痛いんですか……?」

「…………」


歯を噛み締めてガチガチと鳴らし、答えることが出来ない少年に、シュルディアは粘性の液体でグショグショになったコートのポケットから、小さな薬瓶を取り出した。


「あなた……フリークですよね? これ飲んで……」

「…………」


手錠で少女と繋がれた手に、数粒の錠剤が振り出される。


「怪しい薬じゃないです。私もよく頭痛がして……それを飲むと落ち着くんです……」


少年は暫くの間、迷うように錠剤を見ていたが、やがて頭痛に耐えきれなくなったのか、貪るようにそれを口に入れた。

バキバキと噛み砕いて飲み込む。

そこで、シュルディアはハッとして少年を自分の方に引き寄せた。

彼女に抱きしめられ、目を白黒とさせた彼に


「静かに……」


と囁いて、その頭を強く胸に抱く。

少し離れた場所に、黒い機械人形が歩いていた。

どうやらこの島の中を、一定のアレが徘徊しているらしい。

ドッ……ドッ……というか細く、しかし脈動している少女の心臓の音と体温……そして、恐怖で震える振動を感じながら、少年は段々と自分の頭痛が収まっていくのを感じていた。

しばらくして黒い機械が路地の裏に消えたのを見て、シュルディアはふぅ、と息をついた。

そして少年を胸に抱いていたことに気づき、慌てて手を離す。


「ご……ごめんなさい……咄嗟で……」


口ごもった彼女を、少年はどんよりした目で見た。

そして黒い海水で体中がずぶ濡れになっているのを見て歯を噛む。

彼は少女の前にしゃがむと、苦虫を噛み潰したように言った。


「…………頭痛、消えた。お前、言うこと、本当だった」

「…………」


また恐怖の表情を浮かべた彼女に、彼は淡々と続けた。


「寄越せ。もっと。欲しい」

「これは予備なので……あまりないですけど……」

「構わない」


無表情で少女が差し出した薬瓶をむしり取り、少年はそれを振って中身を見つめた。

はじめて薬を見ているかのような彼の調子に、シュルディアは怪訝そうな顔を向けた。


「薬……知らないんですか……?」

「…………」


目を少女に向け、彼はジーンズのポケットに瓶をねじり込んだ。


「初めて見る」

「え……?」


端的に発せられた言葉の意味が分からず問い返そうとし……そこでシュルディアの視界が、ガクンとブレた。


「あ……」


小さな声でそう呟き、急激に力を失ってその場に崩れ落ちる。


「……あれ……?」


体に力が入らない。

喉と鼻の奥が猛烈に痛みだした。

寒い。

体の芯から、物凄い勢いで熱が消えていく。


「…………」


少年はいまいましげに息を吐き捨てると、手を伸ばしてシュルディアの額に手のひらをつけた。

かなり熱い。


「ダラウラン……」


彼が小さな声で呟く。

詳しいことは分からなかったが。

前に、団長が海に落ちた船員を「ダラウラン被爆」と吐き捨てて、引き上げなかったのを思い出したのだ。

どういうことなのか、少年には分からなかったが。

「人間」は、海に落ちたら死ぬ。

それだけは理解できていた。

考え込んでいた彼は、コートのポケットに手を入れて、海水でズルズルの携帯端末を取り出した。

完全に浸水して使い物にならなくなっている。


「…………」


苦しそうに断続的に息をし始めた少女を見下ろし、彼は自分と手錠で繋がったその腕を見た。

不意に、少女の姿が誰かに重なった。

頭の裏にノイズがかかったように断続的にだが、苦しそうに息をしている彼女と、少年の記憶の中の「誰か」が完全に一致した。


……そうだ。

あの時も、こうだった。

あの時も確か、俺はこうして。

何も出来ずに見ていただけだった。

死んでいくのを。

大事な、大事な存在が息を引き取っていくのを。

俺はただ見ていただけだったんだ。


「…………死ぬのか?」


押し殺した声でそう問いかけられ、悪寒に震えながら、シュルディアは目を彼の方に向けた。


「え……」

「お前は死ぬのか?」


短く問いかけられた言葉に、シュルディアは戦慄した。

青くなって立ち上がろうとし……体に力が入らず崩れ落ちる。


「さ……さっきから、寒くて……」

「…………」

「頭も……何だかぼんやりしてて……」


くぐもった声で呟く少女の姿。

それが、少年の目の裏で。

目の前で黒い海に濡れながら、何かを必死に伝えようとしている女性の姿に重なった。


『逃げなさい……』


彼女は言った。


『早く……あなたは、人間として……「ヒト」として生きるんです……』


必死の声だった。

目の前の女性が歯を噛み締めて叫んだ。


『何をしているのです! 私は大丈夫、逃げなさい!』


頭の裏にフラッシュバックした光景に怒鳴りつけられ、少年がハッとして後ずさる。


誰だ……。

この女の人は誰だ。

俺は、こんな人知らない。

知らない……?

知らないはずだ。

でも……。

でも。


このヒトは、大事なヒトだ。


遂には頭を抑えて体を丸めてしまったシュルディアを見下ろし、少年は自分と、彼女の手を繋いでいる手錠を見た。

そしてポケットから鍵を取り出して拘束を外す。


「死なれる。困る」


少しは動きやすくなったのを確認し、少年はシュルディアを肩に担いだ。

そしてまた、ズキリと脳の奥が傷んだのに歯を食いしばる。

彼は、絞り出すように呟いた。


「俺、お前。助ける」

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