第215話 ヤクマが勝てない


「くっ……」


 ヤクマの鼻から血が垂れてきた。

 だが、鼻は折れてもなく、もちろん顔面は陥没していない。

 シンジは一度目二度目とほとんど同じ全力で殴ったのだが、さらに耐久力が上がっているようだ。


 しかし、特に問題は無いとシンジは判断する。

 対応は何も変わらない。


「イソヤと戦った時も思ったけど……攻撃の仕方が下手くそだな。そんな大振りで振り下ろすだけの攻撃が当たるわけないだろ? 動く前に何するか分かるからな。動きはさっきのヒロカちゃんよりも何倍も早いけど、避けるのは簡単だ」


 シンジに殴られたヤクマはフラつきながら鼻を押さえている。


「痛みを快楽に変えて、三半規管が正常に戻っても、顔面を殴られたらフラフラじゃないか。意味があるのか? その薬?」


「っ……!」


 無言で、ヤクマはシンジに向かって爪を振り下ろす。


「結局苛立っているしな」


 ヤクマが爪を振り下ろすのに合わせて、シンジはヤクマの胸の下、鳩尾を突き飛ばす。

 カフっと涎を吐き出しながら、ヤクマの体が数メートル飛んでいった。

 何とか立ち上がったままこらえたヤクマだが、満足に動くことが出来ていない。


 ガクガクと膝が震えている。


「どうした? 攻撃してこい。それに合せて殴ってやるよ。何発でもな」


「ぐ……うううおおお!」


 ヤクマは右手を挙げる。

 すると注射器が五本現れた。

 背後や机に隠していた分だろう。


「いけええ!」


 ヤクマの手の動きに合わせて、注射器がシンジに向かって飛んでいく。

 中には、先ほど床を溶かした強力な酸が入っていると思われる。

 中の液体が一本分でもかかれば重傷だろう。


 しかし、まっすぐ飛んできているなら何本だろうが無力化する事は簡単だ。


「挑発に乗るなよ」


 小さな声でシンジはつぶやく。

 これでヤクマが用意していた罠が無くなった。

 シンジは5本共に凍らせるように蒼鹿を構える。


 その時、シンジの周りを取り囲むように大量の注射器が現れた。


「馬鹿が! 俺がただ攻撃をしていたわけないだろうが!」


 ヤクマは、シンジが凍らせた注射器の氷を破壊していたのだ。

 氷から解き放たれた数十本の注射器が、ヤクマが投げた五本の注射器を凍らせようと構えていたシンジに向かう。


「……ちっ!」


 上下左右に前後。全方位囲まれている。

 凍らせるのは間に合わない。

 蒼鹿の氷と、紅馬の炎でシンジは注射器を払っていく。

 しかし、本数が多い。


 完全に防ぐ事が出来ず、凍っていた注射器のうち数本、シンジの体に刺さった……


「は、ははは。残念、終わりだ。体の中から溶けろ!」


 ように、ヤクマには見えた。


「よっと」


 シンジは何事もなかったかのように、残っていた注射器を払い落とし、それらを全て凍らせる。


「……なっ!?」


「あのな。お前の注射器ってドラゴンの鱗に刺さらないんだろ? グレスから聞いたけど」


 呆れたようにシンジは言う。


「……あ」


 シンジの指摘は、ヤクマが自分で言っていたことだ。

 全身をドラゴンの鱗に覆われているヒロカには注射器が刺さらず、そのために腕を切断していたのだ。


「……薬で物事をかなり楽観視するようになったみたいだな。最初の酸を使った攻撃の時はちゃんと注射器の針から薬液出していたのに……もう一度言うけど、本当にその薬、意味があるのか?」


「う……うるさい!」


 ヤクマは踵を返し、走り出す。


「……なんだ? 逃げるのか? 悪いけどお前を逃がすつもりはないんだけどな」


 シンジの方が、ヤクマより部屋の扉に近い。

 窓から出て空を飛べば関係ないが、空を飛べるのは今のシンジも同じである。

 さらに、仮に逃げられても大丈夫なように手は打っている。

 しかし、ヤクマは逃げるつもりはないようで、黒い布に覆われた物体の前で足を止める。


「……逃げるのは終わりか?」


「はぁ……はぁ……くっくくくく」


 ヤクマは笑いながら、黒い布の一点を指さす。そこにはチューブのようなモノが伸びていてそのチューブの先にヤクマの注射器が刺さっている。


「全部使ったわけじゃなかったのか」


「念のためにな。自分の体と一緒に打っておいた。確かに、お前の言うとおり、強さという点に限れば、俺にはこの薬はあまり意味がなかったようだ。この薬は、元の体の影響を受けるからな。不幸を背負った俺はそこまで強くなれない。しかし、元の肉体が強ければ、より強くなるってことだ。人だろうが……ドラゴンだろうがな!」


 ヤクマが黒い布を取る。そこには、オレンジ色の鱗を身にまとった、大型バイクほどの大きさのドラゴンがいた。その姿から見ても体育館にいたドラゴンの子供だろう。

 体中に鎖が巻き付けられており、口枷がはめられていた。

 

「体が大きい分、時間がかかったみたいだな。でももう終わる」


 そんなドラゴンの子供の夕焼けのような鱗に、一つだけ黄色い鱗が生えている。

 鱗には穴が空いていて、そこをチューブが通り注射器が刺さっている。

 怪しく鼓動する黄色い鱗に合わせて、ドラゴンの子供は体をビクビクと震え、他の鱗の色も変わっていく。

 そして、ドラゴンの子供の震えが完全に止まったとき。

 着けられていた口枷やチューブ、注射器が弾け飛んだ。

 全身の鱗の色を薄い黄色に変え、胸の中心には一つだけ穴の空いた鱗が怪しく光っている。


「……ラァアアア」


 甲高い声だった。

 寒気が走るようなその声が、シンジの耳に届いた瞬間。


 シンジの体が弾けるように飛んだ。


「……ぐっ!」


 飛びながら、ドラゴンの子供のしっぽが揺れているのを見て、あのしっぽによって飛ばされたのだとシンジは理解する。


 壁を壊し、部屋を三つ通過したところで、シンジの体は床に転がり落ちた。


「か……っ!」


「お前が俺に勝てるなら、俺以外に任せればいい……簡単な事だよな」


 くくくと笑いながら、ヤクマが変身したドラゴンの子供を連れて近づいてきた。

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