第60話

 ……俺?

 いきなり自分の異称が出てきて、ライは眉根を寄せた。ライをガキ呼ばわりする様な人間は、少なくともアーランドとエルディアの農民と公務員にはいない。

 そしてそのどちらも、ライとの関係悪化を望んではいないだろう――農民たちはほかの農村の技術指導や新たな農地の開墾を自分たちだけで出来るほど習熟していないし、公務員たちだって食糧事情が改善して納税量が十分増えるまではライとの関係を切ろうとは思わないだろう。

 なにしろアーランドとエルディアの小競り合いの原因は、わずかな食糧がれる農地の帰属をめぐったいがみあい――それ以外に利害の不一致は特に無い。アーランドとエルディアの両国ともに、すでにその十数倍の収穫量を誇る農地がいくつか出来上がっている。今さらそんな小さな農地をめぐって殺し合う意味など無い。

 このまま続けば、アーランドもエルディアも十分な食糧供給能力を持つ農地をいくつも得ることになる――それどころか、将来的には輸出によって外貨を得ることも出来る様になるだろう。今この状況でライの機嫌を損ねる意味は、両国の人間には上っ端から下っ端までこれっぽっちも無いのだ。

 ただ、勇者の弓シーヴァ・リューという呼び名で彼を呼ぶ農民や役人もいない。ということは――

「王女が輪姦マワされましたなんて理由を馬鹿正直に公表して、軍を派遣出来るわけも無い――そんなことしたら、一国の体面にかかわる。かといって公表を控えて軍をエルディアに派遣したら、周辺国家からはそれこそ侵略だと思われる。俺たちはあの小娘を確実にエルディア側に発見される様にして、棄てていけばいいのさ。アーランドは輪姦マワされた小娘をエルディアに送り出すわけにはいかねえし、すでに婚約が成立してるとはいえエルディア側も受け入れを拒否するだろう。アーランドの体面は潰れて、エルディアとの関係も悪化する」

 なるほど、離間工作か――

 胸中でつぶやいて、ライは小さく息を吐いた。

 リーシャ・エルフィはアーランドの王女であるのと同時に、エルディアの王太子ゾット・ルキシュの婚約者でもある――十三年前の大飢饉に端を発する両国の関係悪化はライがこの世界の人間文明に接触して以降のここ数年で急速に改善されつつあり、彼女たちの結婚はそれを象徴するものになるだろう。

 事態こと――

 どうやら、この誘拐を計画した連中の正体も見えてきたな。

 だとしたら――

 ――

 どうやらそいつの居場所を吐かせるために、何人かは生かして捕らえる必要がありそうだ。

 胸中でつぶやいて頭を引っ込めたとき、

「……どうした?」 地上からいぶかしげに問いかける声が聞こえてきて、ライは小さく舌を打った。――

 南側の防壁上は低い角度で兵員防御壁を照らす魔物の月マァル・シャーイの月光で、完全に影に沈んでいる――よほど視力に優れていなければ識別は難しいはずだ。そして多少目が良くても、深酒の入った今の状態では――

「否、誰かそこからこっちを見てた様な」 という返答に、ライは顔を顰めた――

「はぁ? いるわけねえだろ、そんなの――兵舎うえの連中が寝つけずに、風に当たってるだけだろうよ」 酔っ払い特有の大音声で、誰かが仲間の言葉を笑い飛ばす。

「通路に突っしてる様に見えたんだがな――ま、一応確認してくるわ」 その返事を最後に、会話が途切れる。そちらのほうが近いからだろう、防壁内側の階段に向かって歩き始めたのが気配でわかった。

 ――胸中でつぶやいて、ライは兵舎のほうに視線を向けてからその場で身を起こした。そのまま物見塔の内部に引き返し、床の上に置いたままだったコンパウンド・ボウを拾い上げる。

 ここであの男を始末することは出来ない――彼ははっきり行先を告げているのだ。時間が経ったら誰かが様子を見に来て、殺された仲間の死体を発見することになる。

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