第36話

「――!」 突き立てたナイフのグリップから手を離し、その端部に掌をかけてそのまま押し込むと、賊が電撃に撃たれた様に弓形に背中を仰け反らせながら水音の混じった悲鳴をあげた――取り落とした長剣が床の上に落下し、かしゃんという乾いた音を立てる。右肺を破壊しただけではない、刺し込んだナイフの刃は心臓周りの大血管も切断している――急激な血圧低下でショック症状に陥って死に至り、たとえ即死しなくとも肺に溜まった自分の血で溺れ死ぬ。

 すぐに引き抜くと血が噴き出すので、ライはナイフを刺したままの賊の体を適当に脇に投げ棄てた――切断された動脈からは、胸腔内部に大量の血が噴き出している。血が噴き出すのを避けるには、ナイフを取り除く前に血圧が十分下がるのを待つ必要がある。

 断末魔の細かい痙攣を繰り返す賊の屍を見下ろして唇をゆがめ、ライは投獄された若者たちに視線を向けた。床の上で徐々に死につつある賊の骸と自分を見比べて、若者たちが顔面を蒼白にしながら後ずさる――あまり荒事には慣れていないのだろう。

 まあ、たいていの日本人はそういうものだ――軍人でもない市井の一民間人でありながら、高度な戦闘訓練を受けているライのほうが珍しい。

 

 元自衛官の父親から常々言い聞かせられて育ったし彼自身もそう考えているから、ライは人間であろうとそうでなかろうと関係無く脅威となっているものを破壊することに躊躇が無い――だが、そこまでの覚悟がある者は普通の日本人にはいないだろう。

 おびえる若者たちを嘲笑う気にもなれずに――ごく一般的な現代日本人から見れば、異常なのは自分ライのほうだろう――しばらく待っていると、

「わ、わあああああああっ!」 右肩を矢で貫かれた賊が、悲鳴をあげながら牢獄につながる斜面スロープを駆け降りてきた――肩当てショルダーパッドつきの革鎧レザ―アーマーを身に着け、物撃ちの輪郭とほぼ平行にもんの浮き出た王国騎士団標準装備の曲刀を手にしている。外装が燃えたり焦げたりしていないところを見ると、先ほど集積場所ごと焼却したものではなくどこか別の場所にあったか、もしくは自分で持ち歩いていたのだろうが。

 見落としか――

 胸中でだけ舌打ちを漏らし、捕まえようと転身するが――

 気づかなかったのか無視したのか、賊はライにはかまわずに王女リーシャ・エルフィの牢獄に駆け寄り、格子に手をかけて何事かわめき立てている――内容は早口すぎて、今のライの語学力では聞き取りが難しい。あるいは出身地方の訛りや方言のたぐいが混じっているのかもしれない。だがどうでもいい――聞き取れたからどうだというものでもないし、どうせたいした内容でもあるまい。

「おらぁ、出ろ!」 鍵を開けようとする様子も無く、賊が怒鳴り声をあげている――人質にでもするつもりだろうか。リーシャ・エルフィが格子から距離を取っているので、格子越しに捕まえて引き寄せることも出来ない――焦るあまりに施錠されていることも忘れているのか、賊が扉を揺すったあとで苛立たしげに鉄格子を蹴り飛ばした。


※……

 人体の構造に関する学問上、心臓から送り出される血液を運ぶ血管を動脈、心臓に戻る血液が流れる血管を静脈と呼びます。

 またガス交換後の酸素を豊富に含む血液を動脈血、ガス交換前の二酸化炭素を含む血液を静脈血といいます。

 酸素を消費した後で二酸化炭素を取り込んだ静脈血をガス交換のために肺に送る血管も定義上動脈であるため、肺との間で血液を遣り取りする血管は動脈を静脈血が、静脈を動脈血が流れていることになります。

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