第27話

 本当はあのバケツの中身、賊たちの糞をつける予定だったが、兵舎を燻すのに使うことに決めたので予定が変わった。人糞、あるいは雑食性の動物の糞に残った黴菌は、傷口から人体に侵入することで致命的な感染症をもたらす――医療技術の発達していないエルンでは、人糞をなすりつけた矢を撃ち込まれて洗浄が遅れればまず助からない。

 人糞をあきらめたのは、人糞ほど兇悪ではなくとも矢を有毒にする手段はあるからだ――本当は二種類、かなうなら三、四種類の毒物を複合するのがいいのだが、この世界であればひとつで事足りる。それが少し地面を掘り返したところにある、湿った土だ。

 鏃に土をつけたのは、土中に存在する破傷風菌をつけるためだ――鏃に筋状の掻き傷を入れたのは、その傷の内部に細菌やそのほうを入り込ませることで少しでも多くの細菌が鏃の表面に残る様にするためだ。鏃の表面に附着した土の粒そのものは発射時に振り払われてしまうだろうが、表面に傷を入れておけばその傷の中に入り込んだ細菌は鏃に残る。

 現代日本であれば破傷風による致死率は約五十パーセントだが、適切な治療方法が発見されていないエルンにおける破傷風の致死率はほぼ百パーセント――首尾よくここから逃げ出しても、細菌にやられて死ぬ。

 矢がかすめただけならごく短時間の間に洗い流せば助かるだろうが、矢で射抜かれた場合は体内に入り込んだ破傷風菌やその芽胞を取り除くために切開洗浄デブリードマンが必須になる。また場合によっては破傷風トキソイド等の抗毒剤も必須になるため、そんなものが存在しないエルンにおいて破傷風は非常に危険な病気だ――少なくとも、自覚症状が出てから対応してももう遅い。

 仮にここから逃げ延びても、待っているのは確実な死だ。

 ぱりぃん――強風の奏でるびゅうびゅうという音に紛れて、瓶の割れる音が聞こえてくる。配置についたガラたち二名が、鞄に続いてガソリンの瓶を窓から投げ込んだのだ。

 物を燃やして煙を立て、その色や本数などで情報を伝達する通信手段のことをほうとか狼燧ろうすい、あるいはもっとも一般的な言葉として狼煙のろしという。

 狼煙を漢字でこう書くのは『酉陽雑ゆうようざっ』という中国の書物の記述『狼粪烟直上,烽火用之(狼の糞のけむりをあげ、これを烽火として用いた)』に由来し、狼烟ろういん四起しき(四方から狼煙があがる様=そこかしこで戦闘が発生している)という成語もある。

 日本で使われていた狼煙はよもぎや藁などを焚いて煙をあげるものだったが、中国では特に緊急性の高い情報を伝える際に狼の糞を燃やすことで、特に黒色度の高い煙を出したといわれている。

 なら、同じ雑食性の動物である人間の糞も――

 ガソリンを撒かれ十分に油を染み込ませた布に包まれた人糞と木炭と乾燥させた大鋸屑、それに生木の枝はさぞかしよく燃えることだろう――ガソリンと酸化剤として加えた硝石によって、多少糞や枝葉が湿っていても火が消えることは無い。

 窓からもくもくと黒っぽい煙があがり、ガラともうひとりの兵士があわてて距離をとる。

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