第7話 夏、始まり。
夜です。
もうすぐトノサマのオジサマが来る、だからボク起きて待ってなくちゃ、待ってなくちゃ……。
クロちゃんが、こっくりこっくりし始めたころ、遠くから土を踏む音が聞こえてきます。
「すっかり遅くなっちまった、もう寝てるか」
夢の中で聞いたクロちゃんは、パッチりと目を覚ました。
「寝てないよ、起きてたよ、ボク待ってたんだから」
「ウソつけ」
二匹は小さく笑います。
「ねーねー、約束だよ、黒アゲハ蝶の姉御ちゃんのこと、ボクに教えて」
足元で、すやすやと眠っているミーちゃんを起こさないよう、トノサマバッタは低い声で話始めました。
「去年の春だ。この庭に、流しのカラスがふらり現れたことがある。根は悪いヤツじゃなかったが、悪戯が過ぎてな。蒔かれたばかりの種を掘り返し、放り投げ、我々にとっては困った事をしでかした。黒アゲハはここの監督だろう? 黙って見ているわけにはいかないと、カラスのところへ行ったんだ」
「それでどうしたの?」
「でかい図体のヤツからしたら、黒アゲハなんぞひと踏みで潰せる相手だ。話を聞くどころか、更に悪ふざけをして、この庭でしてはならないことをした」
「それはどんなこと?」
「放り出されたのが種ならば、蒔き直せばすむ。だが、ポットから植え替えられたばかりの、まだ赤ん坊の木を引っこ抜かれたらどうなる?」
「土に馴染まないうちに引っこ抜かれたら・・・すぐ弱ってしまうと思う」
「そして枯れる」
「枯れる、そうだよね、そうなったら大変だ!」
「くちばしが赤ん坊の木を挟んだ時、黒い弾丸がヤツの左目に突っ込んだ」
「弾丸?」
「ああ、少なくとも俺にはそう見えた」
「それが黒アゲハ蝶の姉御ちゃんだったの?」
「そうだ、しかもただ突っ込んだんじゃない、自分の身体程ある小石を羽で抱えて、だ。その効果は絶大で、カラスのヤツ、泡を吹きひっくり返り逃げ出した。だが、彼女はその身体に取り返しのつかないような、深い傷を負った」
「どうしてそんな、そんな無茶を」
「まだ続きがある」
「続き?」
「大怪我を負いながら彼女は、ゆっくり立ち上がると身体についた誇りを払い、赤ん坊の木に怪我がないか確かめると、落ちていた松葉を杖にして、顔色ひとつ変えずに持ち場に戻った」
「だけど、だけど、どうしてなの?!姉御ちゃんはひどい怪我をしてたんでしょう、北側のみんなはそれを見ていたんでしょう?なのにどうして誰も助けに」
「それは黒アゲハが望まないことだった。だから俺達は彼女が一番望む事をしたんだ」
クロちゃんは、息をのみました。
「望まないことと望んだこと……一番の望みって何? ボクにはわからないよ」
「黒アゲハは、特別を望まない。あいつが北側の監督して目指していたものは、庭の住民達がいつも安心して暮らせる環境、良くも悪くも゛いつもと変わりのない日々゛」
「本当はみんな、アゲハのところへ飛んで行きたかった。だか俺達は唇を噛みしめながらもそうはしなかった。その痛みを代わってやることが出来ない俺達に出来ることは彼女の気持ちに寄り添うことだけだった」
低い声の余韻が夜風に飛ばされると、クロちゃんは控えめに口を開きました。
「オジサマ、その時の赤ん坊は今何処に居るの?」
トノサマバッタは、グッと顔を近付けると、クロちゃんの小さな瞳を見つめます。
「ここだ」
続けて言葉をつなぎます。
「知りたがりのお前が本当に知りたい事は、自分が見たい聞きたい、そういった好きな事だけの中には無い。答えは、そうでない事の方にある。覚えておくんだぞ。いいなボク。目に見えるものが世界の全てではない。世の中の゛本当゛を知りたいのなら、心の眼を磨け、そして曇らせるな」
その夜のことを知っているのは、並んだ背中を照らしていたお月様だけでした。
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