第138話 命の戦い5
敵がすぐそこにいる――その事実はわたしの心身を限りなく緊張させる。わたしの胸から伝わってくる心音は、カジノの爆音ではないかと思うほど大きく聞こえた。身体は熱を帯びて発汗し、いまが冬であることを忘れさせるほど暑い。
再び曲がり角から敵がいる方を覗く。
敵は――こちらに向かってきている。しかし、こちらに気づいている様子はない。わたしがここにいると気づいているのなら走って向かってくるだろう。
どうする――ここで倒すべきか、それとも――
いや、待て。
わたしの目的はなんだ? わたしを追いかけている者を倒すことが目的じゃない。そもそも、わたしを追いかけている娘たちはただ操られているだけだ。倒すのなら彼女たちではなく、その大本――さっきのあの娘である。あの娘を倒さなければ、操られている者をいくら倒してもあまり意味がない。
それに――
あそこにいる娘はまだこちらに気づいていないし、そもそもあの娘をいまここで倒さなければいけない理由はないのだ。わたしの目的は――三神先生のところまで行くこと。三神先生のところまで行けるのであれば、操られている者たちを一人も倒す必要はないはずだ。
わたしはそう結論づけて、操られている娘が来る方向とは逆側の廊下をできるだけ音を立てずに進んでいく。
逆側に回り込んで進んで、近くにあった階段を降りて、曲がり角に身体を潜め、自分が来た方向を覗いてみる。
――いない。
引き返したのか、それとも向かっていた方向にまだいるのかは不明だが、わたしはまだ見つかっていないようだった。見つかっていないという事実を知り、わたしはひとまず安心して息をついた。
それでも――緊張感は途切れさせない。病院での出来事を思い出せと自分に言い聞かせる。病院では、うまくいったと思ったときにやられてしまったのだ。うまくいったときこそ一番油断してはならないときである。気を抜くのは、三神先生のところについてからだ。
わたしは、授業中で人の姿が見えない静かな廊下をただ一人で進んでいく。
あともう少し――
この場所は校舎の一階だ。あとは校舎から出て、寮に向かえばいいだけだが――
そこで――
相手は三神先生のことを認識しているのではないか、という懸念が生まれた。
夏穂ちゃんをどこかにやったあの娘は――わたしがたいしたことはできないと知っているみたいだった。それなら――わたしが三神先生のことを頼るしかないと知っているのではないだろうか? それを思うと、ぞくりと背中に寒気が走る。
どうする――
でも――
わたしがいまの状況を打開するためには、三神先生を頼るしかないのは事実。わたしは、自分の無力さが歯痒かった。どうしてわたしはこんな無力なのだろう。なにか起こっているのに、なにもできないなんて、悔しすぎる――
すると――
わたしのまわりに光る粉のようなものに満たされ始める。すぐにはっとして口と鼻を制服の袖で押さえた。
『あら、そんなに身構えなくても大丈夫よ。あなたには効かないみたいだし』
光る粉に満ちた廊下の一角に声が響く。どこから聞こえているのかまったくわからないけれど、さっきの娘の声であることはすぐに理解できた。
『三人くらいで襲わせればなんとかなると思ったんだけど――アテが外れたわね。もしかして前にも似たようなことがあったのかしら? どうしてわたしの勘はこう外れてしまうのでしょう。悲しいわ……本当に』
光る粉を振り払おうと、必死に口と鼻を覆っている方の手と逆の手を振ってみる。が、あたりに満ちる光る粉は消える様子がない。どんどんとその濃さは増し、視界を不明瞭にしていく。
『ふふっ、必死になっちゃって可愛いわね。そんな姿を見ているともっといじめたくなってしまうわ』
妖艶なその声はねっとりとわたしの耳を犯してくる。それがとても不愉快だった。
『そんな顔しないで欲しいわ。わたし、あなたのこと好きよ。他の娘とは比べものにならないくらい可愛い顔してるし、なによりいじめ甲斐があるわ。そういう風に抵抗されると、もっといじめたくなっちゃう』
ふう、と耳もとに息を吹きかけられる感触がして、そちらを振り向いた。
しかし、そこは光る粉が満ちているだけで誰の姿はない。
『ねえ、わたしのものになってくれない? なに、後悔はさせないわ。だってわたし、誰かのことを気持ちよくするのは得意だもの』
そんな声が響いた瞬間、光る粉が集まってきて人の形になる。
そして――
人の形になった光る粉は口と鼻を押さえていた手を無理矢理引きはがし、わたしの唇を奪った。
重ねられた唇は異様なほど柔らかくて心地よい。確かな体温と香りが感じられて、誰かにキスをされているとしか思えなかった。
わたしがいくら抵抗しても、相手には実体があるわけではないので、人の形になった光る粉が払われるだけで、わたしはなすままにされてしまう。
身体が溶けてしまいそうな快感と、吐き気を催す不快感が入り交じりだんだんと目の前がぼやけてくる。
やがて人型は離れ――
『やっぱり、あなたは駄目みたいな。どういうことなのかしら。わたしにここまでされても大丈夫なんて。本当に興味深いわ。あいつの目的が終わったら、あなたのことをもらっていいか頼んでみようかしら』
わたしは唇をなんども制服の袖で拭ったが、唇に残る快感と不快感は未だに消えることはない。はっきりと濃厚に残っている。
あいつ――とは誰だ? あの娘は誰かの差し金なのか、それとも――
『あなたがなにをしようとしているのかはわからないけれど――わたしは体育館棟にいるわ。自分で来ても連れてこられてもいいけど――もっと楽しみましょう?』
そんな声が響くと同時に、あたりに満ちていた光の粉は消えていく。なにも見えなくなるほど濃く覆っていた光の粉は、それがあったことが嘘だったみたいに綺麗さっぱり消えてしまった。
一瞬、わたしは呆然としていたが、すぐにはっとなってあたりを見回した。
周囲には――誰の姿も見えない。大丈夫、まだ追っては来ていない。それを確認したのち、わたしは速足で歩き出した。
あの娘は――一体なにが目的なのか? てっきり夏穂ちゃんを狙っているのかと思ったけど――なにか違うような気がする。
そんなことを考えながら歩いていると――
曲がり角を曲がった瞬間に、生徒の姿が見えて、わたしはさっと振り返って角に隠れた。
だが――
その瞬間、なにか物音を出してしまったのか、前を歩いていた生徒はこちらに振り向いて近づいてくる。操られている生徒の一人で間違いなかった。わたしの心音は跳ね上がり、さらに緊張感が増し、身体が汗で湿ってくる。
うつろな目をしてこちらに向かってくる生徒は、まるでアンドロイドみたいで不気味だった。
どうする――
このままだとすぐに見つかる。見つかったら――
いや――
相手は自分と同じ年頃の女の子だ。操られているだけで、なにか特別な力があるわけではない。
焦るな。自分にそう言い聞かせて奮い立たせる。
焦らなければ、この窮地は切り抜けられる。そう信じろ。病院のときに比べたら、相手はたいしたことない――
わたしは手に持っていたモップをぎゅっと握りしめて、操られていた生徒が曲がり角に現れる瞬間に――
飛び出して、モップの柄をフルスイングした。
モップの柄は操られていた娘に当たり、不意を突かれた彼女はそのまま倒れて動かなくなる。
一応、生きていることを確認してみる。
大丈夫。生きている。
だが――彼女が目を覚ます前にここを離れなければ。これで洗脳が消えたとは思えない。操られた彼女たちをどうにかするには――あの娘を倒さなければならないだろう。
わたしは――倒れている娘をもう一度一瞥して――三神先生のところに向かって歩き出した。
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