第91話 透明人間の逆襲7
起きた瞬間に感じられたのは床の冷たい感触と埃の味だった。夏穂はゆっくりと起き上がって、制服についた埃を払っていく。
「……なにをされたのかしら?」
なにか変な臭いがする。なにかが焦げた臭い――その臭いは自分から放たれているようだ。なにか異臭がするものでも浴びせられたのだろうか?
『さあ。だが、なにかされたのは確かだ』
「なにかって、わからないの?」
『ああ。俺の認識もお前の認識能力に依存している。だから、お前が攻撃を認識できなきゃ報復のしようがない。そんなんわかってるだろ』
「ま、別にいいか。変な臭いがする以外に目立った問題はないし」
そこで――
教室の外にいたはずの志乃の姿がないことに気がついた。
「先輩はどうしたのかしら?」
『こっちだって認識できなかったんだから訊かれてもな。お前をぶっ殺したあと、そっちに行ったんじゃないか?』
逃げたってことは、志乃にもなにかしらあったに違いない。一緒に来ていた夏穂が目の前で襲われたのだから、逃げ出したくなって当然だ。そもそも、なにかあったら逃げていいと言ったのは夏穂である。
「ま、無事なら自分の部屋にいるでしょう。なにがあったのかはあとで訊きにいけばいいか」
と、夏穂は結論づけて歩き出した。
校舎には誰の姿も見当たらず、静寂に包まれている。自分の歩く足音が大きく響いているように感じられた。
「でも、なにかあったのなら少しおかしいわね」
『なにがだ?』
「私のことを襲った怪人。だってあいつ、いままで誰かを襲ったことなんて一度もなかったんでしょ? どうして私だけ襲われたのかしら」
『そりゃ――』
そこでオーエンは一度言葉を止めて、思案するかのように数拍時間を置いたのち――
『お前が襲われるまでになんらかの変化があったんじゃないのか? というか、お前が近づいてその怪人が変質して、誰かを襲うようになったってとこだろ。よくある話じゃないか』
「ま、普通に考えるとそうだけど――ちょっとおかしくない? だって、私と同じように変質している命もあの怪人を見ているのよ。もし、私が原因で怪人が変質して、誰かを襲うようになったのなら、それは命にときに起こってもいいはずじゃない?」
『……それもそうだ。なにか引っかかるなこれ』
方向性は違うが、夏穂と命の体質は極めて似ている。似ているのであれば、命が怪人を目撃したときに今回のみたいなことが何故起こらなかったのか?
夏穂の体質が怪異に刺激を与えたのなら、それは命だって同じように刺激を与えているはずである。夏穂と命の体質は属性こそ違うが、根本は同じだ。むしろ、前に遭遇している命の方が与えた刺激は大きかった可能性だってあり得る。どうして二度目でそれが起こったのか? それがよくわからない。
仮に――命が刺激を与え、そこに夏穂が刺激を与えたことで怪人が変質した――という可能性も充分あるだろう。
しかし――
都合のいいことは滅多に起こるものではない。ましてやそれが怪異となればなおさらである。
相変わらず漂う焦げた臭いを感じながら廊下を進んでいく。
「私と命が怪人と遭遇したことによって、変質して誰かを襲うようになったのなら面倒なことになりそうね」
『なんだ。珍しく他の奴の心配か?』
「いいや、命の心配。だってあの娘が同じようになにかされたら私みたいに無事ではないでしょうし。他の奴は知ったことじゃないわ」
『相変わらずクソだなお前』
吐き捨てるような調子でオーエンは言った。
「否定はしない。ただ、あの娘以外のことを気にかけている余裕がないだけよ」
幼い頃にすべてを否定され、人らしさを失ってしまった夏穂は、誰かを支えられるほどの重さも余裕もない。きっとそれは、自分が死ぬ日までそれは続くだろう。夏穂の喪失は――決して取り戻せるものではないから。
それでも夏穂が――命のことだけは背負おうと思うのは、彼女が自分と同じものを見ているからだ。
あの地獄を――
己のすべてを否定するあの暗黒のことを――知っているから。
あれをその身を浴びても、まだ人であろうとしている命が尊いから――
夏穂は命のことを背負おうと思うのだ。
『で、どうすんだ? あの娘に被害が出る前に始末するのか?』
「そうしたいところだけど――最大のチャンスを逃したからねえ。まったくアテがないのよね。いつも通り襲われたらなんとかなると思っていたんだけど――まさかあんな不意打ちを食らうとは思ってなかったわ。ほんと頼りにならないわね」
やれやれ、と言いながら夏穂は立ち止まって硬直していた身体を伸ばした。
「ところで」
『なんだよ。まだ気になることでもあんのか?』
「随分と焦げ臭いから、カウンセリングルームに戻る前にシャワーでも浴びてきたほうがいいかしら」
『知るかよ。そんなの勝手にしろ』
「なによ。つれないこと言うわね。私たち一蓮托生のコンビなのに」
『いきなりなんだ、気持ちわりーな』
オーエンは夏穂の軽口を適当にあしらった。
外は相変わらず曇っているものの、まだ明るかった。夏穂があの怪人に遭遇して不意打ちを食らってから、まだそれほど時間は経過していないのだろう。
とりあえず――体育館棟に行ってシャワーでも浴びてこよう。そこには借りてもいいタオルくらいあるだろうし。
命に連絡しよう――と思って、ポケットからスマートフォンを取り出すと――
「あれ?」
スマートフォンの電源が何故か落ちていて、電源ボタンを押しても起動すらしなくなっていた。どうやら、壊れているらしい。外見上は破壊されているようには見えないけれど――襲われた拍子に壊れてしまったのだろうか。
『なんだ、また壊したのか?』
「またってなによ。自分から壊したことなんて一度もないわ」
夏穂のスマートフォンが壊れるのは、誰かしらに襲われたときだけである。自分の不注意で壊したことは一度もない。
『誰が壊したかなんてどうでもいいけどよ。で、どうすんだ? ないと不便じゃないのか?』
「暇つぶしと限られた連絡ぐらいにしか使ってないし、授業で使ってるタブレットもあるからそっちでも問題ないけれど――明日はどうせ日曜だし、外出して修理に出しにいってもいいわね」
『スマホを修理に出しに行くで外出許可なんて下りるのか?』
「さあ、知らないけど。下りるんじゃない。ここは全寮制だけと、校則が緩くて有名だから。それに、いまはスマホがないと不便なのは事実だし」
『友達いないのに?』
「そういう体ってやつよ」
それに、夏穂は基本的には真面目な生徒である。無断外出もしたこともないし、授業態度も普通。校則違反だってしたことがない。成績もそれなりに保っている。だから、スマホを直しに行くという理由でも、外出許可は下りるはずだが――
「でも、どうして壊れたのかしら」
『行いが悪いからバチでも当たったんじゃねえの』
「あら、それは仕方ないわね」
夏穂は相変わらず鼻につく焦げた臭いを感じながら、体育館棟に向かった。
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