第56話 略奪の悪魔10
――突然流れ込んできたのは、どこまでも続く暗い海のような場所をひたすらに沈んでいくイメージ。
どこまでも広く、どこまでも深い場所にひたすらに沈んでいく。まわりにはなにもなく、そのすべてが暗黒に包まれていた。どこまでも続く暗黒は無限に続いているように思えた。
海のような場所に沈んでいるのに、息苦しさがないのは何故だろう? 溺れることもなく、深い場所に向かって沈んでいる。
ここは、なにもかもありすぎて、そのすべてが無意味と化していた。
その中に――
すべてが沈んでいくと決められた暗黒世界の法則に逆らうかのように、光り輝くなにかが上へ上へと天にある『なにか』を目指してまっしぐらに進んでいく。重い暗黒にその身を侵食されることなく、まとわりつく暗黒さえも飲み込み、自らの糧として、狂ったように上を目指すその姿はなんとも力強い。
それを見て、なんだか向上心があるなあ、と感心する。
その身を暗黒に沈むままに任せている自分とは大違いだ。そんなことを考えていると、光るなにかはだんだんと見えてなくなっていく。
再び――暗黒に包まれて――
なにかおかしな映像を見せられた。またか――現実へと戻った夏穂はなんの兆候もなくたびたび起こるこの現象を『いつものこと』として適当に受け流す。
こんなものを見てしまう理由はただ一つ。怪異が近づいているのだ。怪異に襲われ、その身をすべて凌辱され、怪異に限りなく近づいてしまった夏穂の身にたびたび起こる現象。
毎度毎度、抽象的だったり脈絡がなかったりするせいで、どんなふうに反応したらいいのかまったくわからない。もう少しわかりやすくしてくれればいいのにと思う。誰が作ったのか知らんし興味もないが、演出や仕様が不親切すぎるのはいただけない。
それにしても――
今回のはとてつもなく抽象的だった。
上も下も左右もない暗黒の空間をただひたすらに沈んでいくイメージ。なにもかもあるけれど、なにもかも無意味になった暗黒空間。その中で唯一、上を目指して一心不乱に進む光。一体あれは誰が見たイメージなのだろう? 深海魚だろうか。
「……深海魚ならいいけどねえ」
深海魚が夢を見るのかどうかなんてまったくわからないけれど、地上であるこの場所に深海魚の見ている夢が流れ込んでくるとは思えない。学園があるのは東京の西側だからわりと海から離れているし。
やはり――いまこの学園に潜んでいる『願いを叶える悪魔』のイメージなのだろうか?
たぶん――というか間違いなくそうだろう。オーエンはそいつ以外の怪異の存在は認識していない――はずだから。
だけど――あの暗黒空間は一体なんなのだろう? 悪魔らしく魔界とか地獄とかのイメージなのか?
いや――そうだとすると、あれは漠然としすぎている。
それに――誰かが抱いた魔界やら地獄のイメージだったのなら、ただ暗黒が広がっているだけなんて漠然としたものではないはずだ。
たぶん、もっとわかりやすい感じになるはず。
だから、あの暗黒空間は魔界とか地獄とかではないと思う。
じゃあなんなのだろう――それについて少しだけ考えてみたけれど――まったくわからなかった。
……まあいいか。突然流れ込んでくる誰かの記憶について、どれだけ考えたところでわかるはずもない。
考えるべきなのは――
今日も夏穂の膝の上で可愛らしく座る命に視線を向ける。
――なんだか最近楽しそうだ。
こうしていると、彼女の身体から自分よりも遥かに高い体温とともにその楽しさが伝わってくる。転校してきてからずっと固かった表情も柔らかくなったみたいだ。
やはり――
夏穂以外の誰かとコミュニケーションを取るようになったからなのだろうか?
そうかもしれない。
こういった傾向は間違いなく怪異にその身をすべて蹂躙された命にとって『いい』はずなのだけれど――どうして自分はこんな変な引っかかりがあるのだろう?
命とメッセージのやり取りをするようになったきらは、人間的にまったく問題のない娘なのは間違いないはずだ。
なにがなんだか、まったくわからん。
そんなことを考えていると、なにかを察したのか命が夏穂の手を取って、いつもと同じように夏穂の掌に『どうしたの?』と書き込んでくる。
「あのさ命。あんた、私にはメッセージ送らないの? 手に文字書くのも面倒でしょ?」
夏穂のそんな言葉を聞いて、命は少しだけ考えてから、夏穂の掌に『夏穂ちゃんとはこうしたいの。駄目?』と少しだけ震えながらそう書き込んだ。
命はそう書き込んだあと、夏穂の顔を見上げて様子を窺ってくる。そんないつもと変わらない命の様子を見て、夏穂はなんだか気が楽になった。
なんだ、そうか。
自分以外の誰かとコミュニケーションをとるようになって、命は少し変わったのは事実だろう。
だけど、命が自分に対して向けている親愛はまったく変わっていない。どうしてそれがわからなかったのか。なんとも無様なことである。
まだ直接話せない彼女にとって、誰かの手を取ってその掌に文字を書き込んで自分の思いを告げるのは、いまのこの娘にできる最大限の親愛を向けていることにほかならない。
こうやって身体を密着させているのもその一つなのだろう。
言葉を交わせない代わりに、それらをその身で表現しているのだ。
とてつもなく不器用だが――どこまでも可愛らしくて微笑ましい。
やはり彼女は、致命的に壊れるしかなかった夏穂とは違う。
あんなものに襲われて、すべてを犯され尽くしてもなお、人であろうとしている。
死にながらに生きていくしかできなかった自分とは違う。
なにもかも捨てなければ、自分を保てなかった自分とは違う。
かつて自分ができなかったことを――命はやろうとしている。
本当に――強い娘なんだな、と夏穂は自分よりも遥かに小柄で弱々しい命に感心するしかない。
そんな娘が、人から外れなければ生きていけなかった自分に対して親愛を向けているというのはなんとも誇らしいと思う。
人として大事なものを失った自分にはたいしたことはできないかもしれないけれど――命の思いにはできるだけ答えてあげたい――なんてらしくもないことを夏穂は考えた。
「命、自販機で飲み物買ってくるからちょっとどいてくれる?」
夏穂がそう言うと、命は小さく頷いて膝の上から立ち上がった。しかし、その両手は夏穂の手を握ったままである。
「あんたも行く?」
命の考えを察して、夏穂がそう訊いてみると、彼女はわずかに嬉しそうにしてもう一度頷いた。がっちりと指をからめたまま二人は歩き出す。
言葉を交わさないまま、二人は互いの体温を感じながら廊下を進んでいく。その体温が感じられるのなら、言葉なんて必要ないと、そんなふうに思える。
階段を降りると、自販機のある方向からなにやら騒がしい熱気が感じられた。それに怯えたのか、夏穂の手を握る力が少しだけ強くなる。
そんな命のことを気にしつつ歩いていくと、自販機がある場所の途中にある下駄箱の近くに人だかりができているのが目に入った。
しかも、その人だかりにはなにか異様な熱気が感じられる。なんだろうこれは。それを不可解に思いながらも、適当に無視してその横を通り過ぎようとしたとき――
目を血走らせて取っ組み合いをしている二人の横で――倒れているきらの姿が目に入った。
それを目撃すると同時に、命の手が夏穂の手を握る力がさらに強まった。
「あんたら、なにやってんの?」
夏穂はその二人に対してそう言うと同時に――その片方が獣じみたうなり声とともに夏穂の胸倉をつかんでそのまま投げ倒そうとして――影でも縫いつけられたかのようにその動きが停まった。この場を支配する異様な熱気はいつのまにか消え去っている。
「なに? 文句あるのなら遠慮なくやれば」
夏穂は握っていた片方の手を離して、胸倉をつかみあげてきた娘に言った。
胸倉をつかんできた娘は、一度歯を軋らせて、明らかに苛立たしさを夏穂に向けたのちその手をつかんで吐き捨てる悪態を残して去っていく。
彼女が去ると、その娘と取っ組み合いをしていたもう一人も白けたのか大きな舌打ちをして去っていった。
二人が去ると、異様な熱気を創り出していた人だかりもため息や悪態や舌打ちを残して次々とその場から散っていく。
気づけば、その場に残っているのは、夏穂と命と、倒れているきらだけだ。
一体ここでなにが起こっていたのか――それを疑問に思いながらも、倒れているきらに近づいてその様子を確かめた。
「殴られたのか投げられたのかはわからないけれど――頭を打って昏倒してるようね。見た感じ大丈夫そうだけど――ここで放置しておくわけにもいかないか。保健室まで運びましょう。命、手伝ってくれる?」
命はこくり、と小さく頷いた。
夏穂と命は、倒れているきらのことを慎重に起き上がらせて、二人で彼女のことを担いで保健室まで歩き出した。
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