第53話 略奪の悪魔7

「誰かの願いを叶えてやるなんていうやつってどんなこと考えてるのかな?」


 夏穂はクラスメイトのきらから聞いた『悪魔』について思い出しながら、そんなことを呟いた。


『それを俺に訊いてどうするよ。俺は誰かの願いを叶えたこともなけりゃ、叶えたいと思ったことないんだぜ』


 夏穂の頭の中に響くのは何者にも聞こえる不思議な声。


「……そりゃそうか」


 オーエンはなにもかも失った夏穂の中に生まれた存在である。人みたいに喋っているが、その本質は人ではない。怪異だ。人でない存在が人の気持ちなどわかるはずもない。というかそんなもの、いまの夏穂だって全然わからないのだ。


『しかし、なにか目的があるのは間違いないだろうさ。なにが狙いなのかは見当もつかないがね。そうじゃなきゃ、誰かの願いを叶えてやる必要なんかない。無償に見える善意には大抵の場合、その裏には悪意が隠れている。そういうもんだろ?』

「ええ、そうね」


 では、願いを叶える裏にある目的とはなんだろう? そこがいまいちよくわからない。いまのところ、願いを叶えた生徒たちの様子に変わったところはない。


 願いを叶える悪魔なんて日常から乖離した存在の噂が流れているのに――学園はどこまでもいつも通りの日常が続いている。なにかがおかしいと感じているのに、そのおかしさがなんなのかまったくつかめない感覚――おさまりがとても悪い。


『悪魔』を自称する願いを叶えている何者かの狙いはなんだ? 願いを叶えるというのは――その願いにもよるけれど――とても大きなものである。


 人間の欲望は思っているほど大きい。それが高校生であっても変わらないのは春の一件でよくわかっている。生半可なものでは対価とはなり得ないはずだ。


 願いを叶えるために必要になる対価は間違いなく大きい。そんな大きいものを奪われたのなら――奪われたほうは間違いなく気づくはずだ。


 なのに、現段階でそれを自覚している者は誰もいない。やはりおかしい。どう考えても、要求に対する対価が釣り合っていないように感じられる。


「ねえオーエン。あなたが誰かの願いを叶えるとするのなら――どんなものを対価として要求する?」

『要求ねえ……そんなことしたことねえし、したいとも思わんから全然わからないが――まあ、要求するのなら、〈自分だけでは絶対に得られないもの〉だろうな』

「たとえば?」

『人間の感情とか?』

「なにそれあほくさ」


 夏穂はあまりにも馬鹿らしい答えを聞いてため息をついた。


『そう言うなよ。俺みたいな存在にしてみりゃ人間の感情ってのはなかなか大きな力なんだぜ。その感情が人間社会の発展を生み出したんだからな。狙うだけの価値はある』

「同時にそれが星の数ほどの悲劇も生んでいるけれども」

『そう言うなよ。どんなものになっていい一面も悪い一面もあるもんだ。とにかく、人間の感情ってのは人間が思っている以上に力を持ってるんだよ。俺みたいな存在には相当の価値がある。うまく使えりゃあ相当の力になる――だろうが』

「でも、当たり前に持っている感情を奪われたら普通気づくわよねえ……」

『ああ』


 自分の中に当たり前にあるものがなくなる――それはとてつもなく大きな損失だ。十年前の幼かった夏穂だってそれに気づいている。それなら、高校生の娘であれば気づいて当然なのだが……。


「ところで、怪異の気配は感じないわけ?」

『いる――はずなんだが――今回もまた妙でな。なにかいるらしいが、そいつは突然現れたり消えたりしてんだ。まったく居所がつかめない。いるにしては気配もやけに弱いしよ』

「春のときみたいな感じ?」

『いや、それとも違う。春のときは動きこそなかなかつかめなかったが、完全に消え去ってはいなかった。だが、今回は違う。いなくなるときは、ここから気配が完全に消えてるんだ。それで、現れるときはどこからから突然現れる。現れたときも妙に気配が弱いしな。まったくわけがわからん』

「…………」


 突然現れては消える。しかも消えるときは完全に消えているという。

 なんだそれは。いくら怪異であっても、そんな都合のいいことはできないはずだ。この学園は怪異の存在に適していて、微弱なものであってもその力は強まってしまう。強くなったのであれば、それだけその痕跡を消すのは難しい。


 怪異にとって、この場所が存在に適しているがために、この場所に縛られてしまう。この場所に縛られている怪異の多くはここから去れば、そのまま消えてしまうはずだ。


 そもそも、それなりの強さを持った怪異であるならば、スイッチみたいに現れたり消えたりなどできるわけがない。


 すると、枕もとに置いてあったスマホがぶるりと震えた。なにかメッセージが届いている。最近よく送られてくるスパムメッセージだ。なにも意味をなしていないワードサラダの文章。夏穂はそれを適当に無視してスマホを放り投げた。


『最近、やけにスマホを気にしているな』

「……なにか文句でもあんの?」

『いいやまったく。だが、そわそわしてるお前が感じられるのはなかなか面白くてな。そんなにあの娘が気になるのか?』

「…………」


 今日の夕方――夏穂がいつものように京子に命の様子を報告していたとき――カウンセリングルームの外で待たせていた命ときらが楽しそうにメッセージでやり取りしているのを見かけた。直接のコミュニケーションは難しいと思ったきらが命に気を遣った結果なのだろう。それは想像に難くない。命の健全な復帰を考えるのであれば、自分以外とやり取りするのは好ましいはずだ。


 だが――

 どうして妙な引っかかりがあるのだろう?

 自分一人で独占していたものを――奪われたとでも思っているのか?

 よく、わからない。


 どうして、自分がこんなふうに思っているのか。

 どうして、自分がこんな感情を持っているのか。

 まったくわからない。


 そんなもの――とっくの昔になにもかも失くしてしまったはずなのに――

 どうしてこんな引っかかりがあるのだろう?


 命は、夏穂のものではない。彼女には彼女の意思がある。あの娘がそうしたいと言うのならば、復帰の手助けをしている以上、それを尊重するべきだ。夏穂以外の誰かと付き合いをするのはいい兆候のはずなのに――


『そんなにメッセージのやり取りがしたいのなら、直接そう言えばいいじゃねえか。お前が言ったのなら、あの娘は断りゃしねえだろ』

「……そういうわけじゃないのよ」


 夏穂は命とメッセージのやり取りをしたいわけではない。


 そもそも、同じ部屋でルームメイトとして過ごしているのだから、その必要性はないだろう。夏穂と命は――一番近い距離にいる。それはゆるぎのない事実のはずだ。夏穂と命にはお互いにしか共有できないものがある。


 そんなこと――わかりきっているはずなのに――


『お前がそんなふうに悩む日が来るとはな。いい傾向じゃねえか』


 オーエンは年齢も性別も判然としない不思議な声を響かせて笑う。いつも聞き慣れているはずのそれが今日ばかりはやけに耳障りだ。何故だか妙に心がざわつく。なにかがおかしい。どうなっているのだろう? まともな人間みたいじゃないか。


「……うるさい」


 それだけ言って、夏穂は目を瞑った。

 思い浮かぶのは、夕陽に照らされた寮の廊下で楽しそうにメッセージのやり取りをする命の姿。


 あの娘にとって、そういうのはとてもいいことのはずなのに――それを思い出すと夏穂の心は妙にざわついてしまう。


 どうなっているのだろう?


 思い悩むなんて余分は失ったはずなのに。

 失うしかなかった、はずなのに――

 生きるためには、なにもかも失うしかなかったはずなのに――


 いまさらになって、どうして……。


 それから夏穂は――深い海に沈んでいく夢を見た。

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