第27話 無間の牢獄4
夕食も風呂も済ませ、湯上がりの火照った身体のまま消灯までの二時間ほどある自由時間に、夏穂は今日の放課後、姫乃から渡された『音のない空間』に関連する情報をまとめた資料に目を通していた。
ひと通り目を通して、わかったことがある。
まず、『音のない空間』が発生する場所は決まっていないらしい。姫乃の資料によれば、『音のない空間』の類似事例の発生場所は校舎の中のみだった。
だが、姫乃の言う通り、突貫で作ったこの資料にはあやふやな部分も多い。確証が得られていない現在は、グラウンドや体育館棟など校舎以外の場所でも『音のない空間』が発生する可能性があると考えておくべきだ。学園の敷地内でどこにでも発生するのなら――
「場所でヤマを張るのは難しそうね」
夏穂はぼそりと呟いた。
特定の場所で起こっているのなら――何度かその場所に立ち寄っていれば、怪異と反応しやすい夏穂ならば簡単に遭遇できるだろう。
では、どうして場所が決まっていないのだろうか――それを考えてみる。
考えられるケースその一――場所は決まっているが、発生する場所が複数ヶ所ある。これはどうだろう。
――違う。
資料を見た限り、朋香が遭遇した『音のない空間』と類似した事例の発生場所は遭遇した人数と同じだ。その数は二十一。朋香の分も入れれば二十二だ。
近い場所で起こった事例はいくつかあるが、同じ場所で起こったとは言えない。数が少なければ、発生場所に特定のパターンがあると考えてもいいだろう。
しかし、その数がニ十以上ともなると、パターンがあるとは考えにくい。ニ十以上の決まったパターンを作る意味があまり感じられないし、それならランダムないし疑似的なランダムで起こしたほうが手間にならないはずだ。
考えられるケースその二――怪異そのものが意思めいたものを持ち、学園内を移動している。これはどうだろう。
――こちらはあり得る。
意思めいたものを持つ怪異というのはそれほど珍しくない。珍しくないが、自然に意思に近い『なにか』が発生するケースはレアである。
発生の原因が人間だったケースなら、はじめから意思を持っていたり、意思に近いものを持っていたりするが――まとめられた情報を見る限り、この怪異は人間がもとで発生したものとは思えない。人間を原因としているのなら、悪意や害意がもっとあるはずだ。
はっきりいって朋香が遭遇した『音のない空間』とその類似事例にはそれらがまったく感じられない。いまのところ、現代科学ではちゃんとした説明をつけられない不思議な現象を起こしているだけである。それでは意思やそれに似たものが生まれる余地はない。
それに――移動をしているのなら、どうして学園内に留まっているのかも説明ができないところだ。怪異にとって、外部から隔離され、清浄を保っていながら澱んでいるこの学園は、怪異などおかしな存在を安定させるのに適しているのは事実である。事実であるが、なにか引っかかるところがあるのは何故だろう。移動をするのなら、外に出て、そのまま消えてしまってもおかしくないはずなのに――
「うーんわからん。場所についてはもうちょっと調べてみないとどうにもならないわね……」
もう一つおかしなところがある。
朋香が遭遇した『音のない空間』はいままで発生したと思われる類似事例では起こっていないことだ。
これはどういうことだろう?
この資料を見た限りでは、朋香が遭遇した怪異と、いままでの事例には共通している部分が多い。過去の事例でも朋香と同じようにいきなり誰もいない空間に移動して、ほんの短い時間だけその場にいてすぐに戻っている。
朋香の様子を考えれば、音のない空間に移動したのならその異常さはすぐに理解できるはずだ。二十人――いや、大目に見てその半分と見積もっても――音のない空間に入ったけれど、全員がそれに気づかなかったとは思えない。五感が正常に機能している人間にとって音はあって当たり前のものだ。
あって当たり前のものが一切なくなったときの衝撃というのはかなりのものである。朋香の反応が特別なものだったとは思えない。あの娘はいたって普通である。余計なものに憑かれていないのは確かだったし。
「うーん」
夏穂は紙束を持って唸っていると、背後で部屋の扉が開く音が聞こえてきた。少しだけ背後を確認する。長い髪を乾かしていた命が戻ってきたようだ。
命は未だに紙束を持って唸っている夏穂の隣に座った。風呂上がりのせいか、いつもよりも身体が温かい。シャンプーのいい香りもする。夏穂を見るその目は『まだやってたの?』と言いたげであった。
「どうせ時間あるし。暇潰しにね。ところで命、この怪異にかんしてなにか意見ある? 別になんでもいいわよ」
命は昼も放課後も話を聞いていたので、夕食前、一緒にこの資料に目を通していたのだ。
いつも通り、昼も放課後も喋っていないが、話は聞いていたのだからなにが起こったのかわかっているはずである。自分一人で考えてわからないときは、さっさと諦めるか、違う視点の意見を聞いたほうが早い。
わずかに表情を変化させて、考えている様子を見せたのち、夏穂の手を取って、掌を指でなぞり始める。
「成長してる?」
夏穂がそう言うと、命は小さく頷いた。
成長……成長か――そんなことを考えながら、夏穂はもう一度資料に目を通してみる。
そう言われてもう一度資料に目を通すと、確かにそれには納得できた。最初に起こった事例と最後のほうに起こった事例ではわずかではあるが変化がある。変化はあるが、それは本当にわずかなので誤差と言ってもいいものだが――
しかし――
朋香の身にそれがふりかかったとき、それは急激な変化を起こしている。音を完全に遮断し、決して無視できないレベルで時間の移動を引き起こすものに変化した。朋香が遭遇する以前の事例での差が誤差であったとしても、朋香の身にそれが起こったときにその怪異が大きく変化したのは明らかである。
朋香の身に起こったときと、それ以前になにか大きく変化を起こすなにかがあったのだろうか? 今日会って話をした限りでは、朋香は普通の娘である。今日話した限りでは、彼女になにか問題があったとは思えない。あの娘は巻き込まれただけだ。それは間違いないはずである。
もう一度、資料をはじめから目を通していく。朋香以前の事例で最後に起こったのは――今年の春――半年ほど前だった。
「進化っていうのは起こる時は急激に起こるっていうものね。これは生物ではないけれど――進化という概念は多くに関連してくるものだしね。しかし、怪異って進化――もとい成長ってするのかしら?」
夏穂がそう言うと、それを聞いた命は困った表情を見せて、『わかんない。変なこと言ってごめんなさい』と掌を指でなぞった。
「別にあんたを責めてるわけじゃないわ。そんな顔しないの。でもまあ、面白い意見を聞けたわ。ありがとう」
夏穂がそう言うと、命は嬉しそうに身体をすり寄せてきた。その様子がなんとも可愛らしかったので夏穂は頭を撫でてやる。猫みたいにゴロゴロ鳴きだしそうだ。
もし、この怪異が成長しているのなら、見過ごせない点がある。
このままこの怪異が起こり続ければ、その力は強まって、他の誰かが朋香が受けた以上のショックを受ける可能性があることだ。
朋香の事例を含めても、この怪異そのものには遭遇した誰かに対して害をなすものではない。
音があって当たり前の人間にとって『音のない空間』は害があるかもしれないが、この怪異自体には人間を害そうという意思があるわけではないだろう。本当に人間に対して害をなすつもりなら、『音のない空間』に短い時間だけ移動させる程度では終わらないはずである。
だが――
この怪異が成長をしているのなら――今後『音のない空間』以上に人間にとって有害なものへと変貌する可能性は充分あると言えるだろう。それが直接的に傷つけるものでなかったとしても、人間を傷つけて壊すのは簡単だ。
夏穂が防ぎたいのは――命がこの怪異に巻き込まれることだ。
朋香の件で劇的な変化を起こしたこの怪異が、怪異と反応しやすい命を取り込んでしまった場合、朋香のときよりも遥かに劇的な変化を引き起こすと思ったほうがいい。命の復帰を考えれば、怪異なんぞにかかわらないほうがいいに決まっている。
とは言ったものの――
資料を見る限りでは、いきなり現れて消えるタイプの怪異のようなので、事故と同じでこれを回避するのはちょっと難しい。できるだけ一緒にいたとしても、命だけが怪異に捉えられるケースもあり得る。
さて、どうしたものだろう、と夏穂が考えていると――右肩にかかる体重が強くなったのが感じられた。
視線をそちらに向ける。
命が夏穂の肩に寄りかかったまま寝息を立てていた。まだここでの生活に慣れていないのか、相当疲れているようだ。
「ほら。もう寒くなってるんだから、こんなところで寝ると風邪ひくよ。寝るのならベッドに行きなさい」
そう言ったものの、肩に寄りかかった命は反応せず、仕方ないので夏穂は彼女を担いでベッドまで運んだのであった。
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